黛敏郎時代の特徴
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「題名のない音楽会」の記事における「黛敏郎時代の特徴」の解説
保守派の文化人として政治活動もしていた黛は、時に軍歌や憲法など政治的なテーマを度々取り上げたが、一部はNET⇒テレビ朝日側 が却下し、放送されることは無かった。1969年2月9日(放送日、以下同様):『京都遷都論』(サブタイトル、以下同様) 1970年1月2日:『皇紀2630年奉祝番組』 1971年9月11日:『陛下御外遊奉祝番組』 1973年9月29日:『伊勢遷宮奉祝番組』 1974年8月24日:『君が代考』 1977年4月3日:『神武天皇実在論』 6月19日:『元号制定記念番組』 10月30日(放送予定):『教育勅語のすすめ』放送されず。 1981年5月3日:カンタータ『憲法はなぜ改正されなければならないか』(歌詞及び構成は黛自身)を公開したが、放送されず撮り直し。黛は「表現の自由侵害だ」と抗議。代わりに『カラコルム渓谷音楽紀行』を収録、撮り直しに合意しなかった黛抜きで放送された。 1984年1月15日:『君が代考-鹿児島にて』 5月27日:『5月27日にうたった歌』 - 「海」にまつわる曲の特集。冒頭はスクールメイツによる「かもめの水兵さん」というソフトな出だしだったが、実はこの日は日本海軍の海軍記念日にあたり、黛は日本海海戦の話を滔々と語った。ラストは「海ゆかば」であった。 1993年6月6日:『皇太子殿下、ご成婚を祝ふ』ほか 黛は、フェルッチョ・ブゾーニの大曲「ピアノ協奏曲」の終楽章(合唱付き)も取り上げている。 黛は、ヘンリック・グレツキの交響曲第3番「悲歌の交響曲」の第一楽章の日本初演も行なっている。 1974年から1995年まで、一部の例外 を除いてその年の最終放送には、外国のオペラ歌手や歌唱力がある財界人などを集めて、『NHK紅白歌合戦』を模倣する企画が恒例化していた。1974年12月28日:『大紅白ものまね歌合戦』 1975年12月28日:『紅白碧眼歌合戦』 1976年12月26日:『真正小紅白歌合戦』 1978年12月31日:『豪華カラオケ歌合戦』 1980年12月28日:『花の政党対抗紅白歌合戦』 1981年12月27日:『花の社長対抗紅白歌合戦』 1982年12月26日:『評論家対抗紅白歌合戦』 1983年12月25日:『クラシック版紅白歌合戦』 1984年12月30日:『世界名料理店対抗紅白歌合戦』 1985年12月29日:『花の名演奏家紅白歌合戦』 1986年12月28日:『題名版 紅白歌合戦 悪夢編』 1987年12月27日:『エアライン対抗紅白歌合戦』 1988年12月25日:『これが紅白歌合戦だ!』 1989年12月31日:『紅白歌合戦よさようなら』 1990年12月30日:『えっ、今年も紅白歌合戦』 1991年12月29日:『これが紅白だった』 1992年12月27日:『国会議員紅白歌合戦』 1993年12月26日:『先生たちの紅白歌合戦?』 1994年12月18日:『オーケストラ紅白歌合戦』 1995年12月24日:『東西文士対抗紅白歌合戦』 ※このほか、俳優・作家・歌手・政治家など著名人1人を招いての『わが青春の歌』シリーズ(藤山一郎・浜田幸一・金田一春彦ほか)などのシリーズものや当時の流行を取り入れた娯楽性の高い企画も多く放送されていた(例えば、1970年代後半には日本テレビの『テレビ三面記事 ウィークエンダー』やNHK総合テレビの『ホントにホント?』のパロディ版を放送したこともある)。
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