鹿野武一の死『サンチョパンサの帰郷』の上梓とは? わかりやすく解説

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鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)

石原吉郎」の記事における「鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓」の解説

1955年昭和30年)は石原にとって大きな事件があった年である。 事件とは、友人鹿野武一同年3月心臓まひ急死したことである。鹿野1953年昭和28年12月復員しその後1954年昭和29年)から新潟県内診療所薬剤師として勤め始めていたが、心身消耗激しく数ヶ月辞めていた。鹿野の死は石原には大きな事件だった。石原シベリア抑留に関するエッセイ書いたのは結局のところ鹿野存在と死が理由であるとの論すらある。鹿野との思い出に関して石原はいくつエッセイ残しているが、「ペシミスト勇気について」が鹿野に関する主要な文章である。 ただ、石原から見た鹿野と、鹿野実像の間には大きなかい離がある。実際に石原鹿野中に自分目指す一種理想見ていたようである。 1956年昭和31年4月石原は弟の紹介知った女性と結婚した。この女性もシベリア抑留と関係のあった人で、前夫シベリア抑留によって亡くしていた。結婚式内輪であげその後団地暮らしたが、前年から石原勤めていた会社つぶれて再び失業し、生活は苦しかったシベリア抑留時代友人のつてで、1958年昭和33年)夏に、設立され間もない社団法人海外電力調査会」にロシア語能力買われ臨時職員として採用された。その後1962年昭和37年)に正規職員として採用されて、以後亡くなるまでこの職にあった一方、『ロシナンテ』の方も活動次第低下していった。 活動開始から約1年半後の1956年末には隔月刊から季刊移行し1959年昭和34年)に19号終刊した。なお、石原は、『ロシナンテ』で活動した詩人の中で優れた詩を残した人物として好川誠一勝野睦人、粕谷栄市の3人をあげている。『ロシナンテ同人多く創作の世界から去っていったが、石原詩作続けた石原は『ロシナンテ』に代わって、近江地方中心に活動していた詩誌『鬼』に参加するようになった1963年昭和38年12月石原は第1詩集サンチョ・パンサ帰郷』(思潮社刊、現代詩双書) を上梓する。印刷終わった詩集受け取り思潮社にやってきた石原は「これは私の遺骨ですよ」「カタコト、音がしますかね」と言って詩集10冊ほど風呂敷包んで持って返り、その一部知人配った題名については、石原違和感を持つ社会抗う自身を、ドン・キホーテ従者サンチョ・パンサ」になぞらえてシベリアから日本帰郷したことを意味している、ということはしばしば言われることである。『サンチョ・パンサ帰郷』は翌年1964年昭和39年)、第14回H氏賞 (現代詩新人賞にあたる) を受賞した1966年昭和41年)にはH氏賞選考委員になるなどしたものの、この時期しばらくの間石原大きな事件はなかったが、1967年昭和42年秋に石原の「肉親へあてた手紙」が同人詩誌『ノッポチビ33号掲載され、このことがきっかけで石原の生活は大きく変わる事になる。

※この「鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓」の解説は、「石原吉郎」の解説の一部です。
「鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓」を含む「石原吉郎」の記事については、「石原吉郎」の概要を参照ください。

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