鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展とは? わかりやすく解説

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鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 14:48 UTC 版)

片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の記事における「鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展」の解説

明治中期までは海岸一帯地曳き網漁場があったのみで、無人地帯だった。江戸時代幕府相州炮術調練場鉄炮場)だったからである。1887年明治20年)の鉄道開通見越して地元有力者の手海岸開発企てられた。1886年明治19年7月18日腰越漢方医三留栄三の提唱で「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。ところが、海水浴場開き当日、三留医師飲酒後に海に入り急死したという。海水浴客受け入れのために旅館鵠沼館」が開業し数年の間に「対江館」、「東屋」も開業したまた、鵠沼南部農家中には貸別荘風の家作を建てるものも現れた。1901年明治34年)夏に、画家=川合玉堂が対江館に来遊し、『清風涼波』の絵巻制作した。これにより、明治時代海水浴風俗を知ることができる。一方この頃鵠沼少女時代送った小説家内藤千代子は、海水浴場賑わいと「板子乗り」の楽しさ描いている。1902年明治35年9月1日江ノ島電氣鐵道開通し鵠沼海岸別荘地開発本格化すると共に海水浴場へのアクセス改善された。しかし、明治大正期海水浴は、旅館別荘滞在するのが一般的だった1923年大正12年9月1日大正関東地震関東大震災)による地盤隆起鵠沼海岸で約90cmと想定され大幅な海退により砂浜面積が拡がった。震災復興期、現在の鵠沼海岸一丁目先の砂浜に「安全プール」と称する海水プール開業し芥川龍之介游泳する姿を小説家今井達夫記録している。砂浜面積拡大は飛砂の被害もたらし1928年昭和3年)、湘南海岸一帯神奈川県御大典記念事業として「砂防林」のクロマツ植林始められた。1929年昭和4年4月1日小田急江ノ島線開通鵠沼海岸駅片瀬江ノ島駅開業したこの年神奈川県知事就任した山県治郎は、湘南海岸一帯国際観光地化を目論み、県営湘南水道神奈川県道片瀬大磯線(「湘南海岸公園道路通称湘南遊歩道」と呼ばれる現在の国道134号)の敷設引地川河川改修などが次々具体化した1931年昭和6年7月27日藤沢町働きかけ鵠沼海水浴場恒久建物の「鉄道省海の家」が開かれたまた、藤沢駅海の家を結ぶバス路線開通した1935年昭和10年7月27日湘南遊歩道湘南大橋を除く区間)が開通したこの頃まで、引地川下流部は東に向かい河口高座郡鎌倉郡の郡境付近にあった。すなわち、鵠沼海岸海水浴場引地川右岸にあったが、河川改修により現在の位置切り替えられた。1938年昭和13年7月引地川右岸県立鵠沼プール(後の鵠沼プールガーデン開場藤沢町管理委託された。また、鉄道省海の家この年限り閉鎖された。1944年昭和19年8月5日鵠沼海岸での海水浴警察町内会長許可得た地元市民限られるという時代になるが、小田急開通以来日帰り海水浴普通になり、鵠沼海岸海水浴場藤沢唯一の海水浴場として関東地方代表する存在発展した安全管理地元青年団奉仕活動として行われていた。

※この「鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展」の解説は、「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の解説の一部です。
「鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展」を含む「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の記事については、「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の概要を参照ください。

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