鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展
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「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の記事における「鵠沼海岸海水浴場の誕生と発展」の解説
明治中期までは海岸一帯は地曳き網の漁場があったのみで、無人地帯だった。江戸時代、幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)だったからである。1887年(明治20年)の鉄道開通を見越して、地元有力者の手で海岸の開発が企てられた。1886年(明治19年)7月18日、腰越の漢方医三留栄三の提唱で「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。ところが、海水浴場開きの当日、三留医師は飲酒後に海に入り、急死したという。海水浴客受け入れのために旅館「鵠沼館」が開業し、数年の間に「対江館」、「東屋」も開業した。また、鵠沼南部の農家の中には、貸別荘風の家作を建てるものも現れた。1901年(明治34年)夏に、画家=川合玉堂が対江館に来遊し、『清風涼波』の絵巻を制作した。これにより、明治時代の海水浴の風俗を知ることができる。一方、この頃鵠沼で少女時代を送った小説家内藤千代子は、海水浴場の賑わいと「板子乗り」の楽しさを描いている。1902年(明治35年)9月1日、江ノ島電氣鐵道が開通し、鵠沼海岸別荘地の開発が本格化すると共に、海水浴場へのアクセスも改善された。しかし、明治、大正期の海水浴は、旅館や別荘に滞在するのが一般的だった。 1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震(関東大震災)による地盤の隆起は鵠沼海岸で約90cmと想定され、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった。震災復興期、現在の鵠沼海岸一丁目先の砂浜に「安全プール」と称する海水プールが開業し、芥川龍之介が游泳する姿を小説家今井達夫が記録している。砂浜の面積拡大は飛砂の被害をもたらし、1928年(昭和3年)、湘南海岸一帯に神奈川県の御大典記念事業として「魚附砂防林」のクロマツの植林が始められた。1929年(昭和4年)4月1日 、小田急江ノ島線が開通。鵠沼海岸駅・片瀬江ノ島駅が開業した。この年、神奈川県知事に就任した山県治郎は、湘南海岸一帯の国際観光地化を目論み、県営湘南水道、神奈川県道片瀬大磯線(「湘南海岸公園道路」通称「湘南遊歩道」と呼ばれる。現在の国道134号)の敷設、引地川の河川改修などが次々に具体化した。1931年(昭和6年)7月27日、藤沢町の働きかけで鵠沼海水浴場に恒久建物の「鉄道省海の家」が開かれた。また、藤沢駅と海の家を結ぶバス路線も開通した。1935年(昭和10年)7月27日、湘南遊歩道(湘南大橋を除く区間)が開通した。この頃まで、引地川の下流部は東に向かい、河口は高座郡・鎌倉郡の郡境付近にあった。すなわち、鵠沼海岸海水浴場は引地川の右岸にあったが、河川改修により現在の位置に切り替えられた。1938年(昭和13年)7月、 引地川の右岸に県立鵠沼プール(後の鵠沼プールガーデン)開場、藤沢町に管理が委託された。また、鉄道省海の家はこの年限りで閉鎖された。1944年(昭和19年)8月5日、鵠沼海岸での海水浴は警察・町内会長の許可を得た地元市民に限られるという時代になるが、小田急開通以来、日帰りの海水浴が普通になり、鵠沼海岸海水浴場は藤沢唯一の海水浴場として関東地方を代表する存在に発展した。安全管理は地元青年団の奉仕活動として行われていた。
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