馬琴との交流
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文政2年(1819年)2月下旬、真葛は自著『独考』と手紙・束修を江戸在住の妹萩尼に託し、当時最大の人気作家である曲亭馬琴に届けさせた。内容は添削と出版の依頼であった。戯作者である馬琴を頼ったのは、『とはずがたり』によれば「『此文をかゝる人に見せよ』と、不動尊の御しめし」があったからだとされる。しかし、53歳の馬琴は宛先が「馬琴様」とのみあること、差出人も「みちのくの真葛」と記すだけで身元なども書かれていない手紙に怒った。紹介状もなく、初めて手紙を出した相手に、いきなり批評を依頼したことに対し、馬琴は腹を立てて使用人のふりをして預かったという。ところが、馬琴は『独考』を一読してみて、「婦女子にはいとにげなき経済のうへを論ぜしは、紫女清氏にも立ちまさりて、男だましひある」 と、当時の女性の文としては稀少なことに、修身や斉家、治国を論じた経世済民の書であることに感嘆し、従来そうしてきたように直ちに添削依頼を拒絶するのではなく、さしあたって、戯作者としての筆名を親書の宛名としたこと、身元なども説明しないままに添削等を頼むことは非礼にあたらないかという詰問の返事を書いて、再訪した萩尼に託した。 真葛は、馬琴の返事を受けるや素直に非礼を謝罪し、みずからの身分や『独考』執筆の動機などを綴った手紙や『七種のたとへ』などの作品を送った。これらは、『昔ばなし』や『とはずがたり』として馬琴編著『独考餘論』に収載されている。真葛の示した誠意と恭順な態度に馬琴も満足し、また、みずからも武士出身である馬琴は真葛の工藤家を思う心情にも共感して、以後、萩尼を仲介者として真葛との文通をつづけた。 馬琴からの手紙が真葛のもとに届いたのは、約1か月後の3月末ころであった。その手紙は、家を継ぐべき弟を2人とも亡くし、血縁者としては萩尼しか残されていない真葛の境遇に「いかなるまがつ神のわざにや、いといたましくこそ思い奉れ」と心から同情し、真葛と萩尼の姉妹が、父平助やその生家長井家の名をあらわすために心を合わせていることを「たれかは感じ奉らざるべき」と感嘆し、さらに、「をうなにして、をのこだましひましますなるべし」つまり、老女でありながら男子の魂をもっていると真葛らを賞賛している。ただし、『独考』には体制批判や公儀・朝廷に対する批判など当時の禁忌にふれる箇所もあり、また、当時の出版事情からいってもすべてを出版できるかどうかは難しいと述べ、しかし、写本によって後世に伝える方法もあると述べ、さらに、そのためにも『独考』の一部をみずからの随筆『玄同放言』に載せて真葛の名を世に広める一助にしたい旨が記されていた。末尾には馬琴作の短歌2首まで添えられており、好意的といってよい内容であった。 真葛は、自分の名を広めた方がよいというのならばと、仙台での聞き書きをまとめた『奥州波奈志』と前年の8月に著した、宮城郡七ヶ浜を旅したときの紀行文『いそづたひ』を馬琴のもとに届けさせている。 こうして馬琴と真葛の交流はつづいたが、真葛がそれとなく校閲を催促する手紙を送ると、馬琴は一転して態度を硬化させ、『独考』のほとんどすべてに猛烈な反駁を加えた『独考論』を書き、手元に置いていた『独考』とともに真葛に送りつけて絶交した。多忙なはずの馬琴は20日ほども費やして『独考』を越える量の『独考論』を書き上げたのであった。文政2年11月24日(西暦1820年1月9日)のことであった。 これに対し、真葛は礼物とともに丁重な礼状をしたためて送り、翌文政3年(1820年)2月、馬琴より礼状を送られて、返礼の書簡を送ったのち、互いに手紙のやり取りは途絶えた。こうして、2人の交流は約1年で終わった。
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