戯作者として
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1803年(享和3年)、紳士録である『東海道人物志』を上梓した。この本は、東海道の宿駅ごとに、居住している学者や文人などの名が掲載されており、菊舎、播磨屋、須原屋といった三都の書林から出版された。 その後、1807年(文化4年)に読本である『蟹猿奇談』を上梓した。以降は読本の執筆に励み、計22編を出版した。さらには作品が歌舞伎として舞台化され、三都で上演されるなど、戯作者として知られるようになった。1807年(文化4年)に発表された『新編復讐陽炎之巻』、1811年(文化8年)に発表された『長柄長者黄鳥墳』、1811年(文化8年)から1821年(文政4年)にかけて発表された『勇婦全伝絵本更科草紙』などが代表作として知られている。 なお、戯作者としての活動の傍ら、日坂宿にて寺子屋を開き、近隣の子供らの教育に尽力した。寺子屋で指導を受けた者の中から、のちに遠江国報徳社を創設する岡田佐平治らを輩出した。なお、日坂宿での生活については、佐野郡下俣村で庄屋を務める大庭代助らが支援していた。 また、日坂宿にて迎えた後妻を、文政元年に亡くしている。晩年は近隣の長松院にて参禅し、仏卵と号するようになった。1823年4月4日(文政6年2月23日)に死去したが、墓所も長松院に置かれている。
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