戯作者としての出発
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寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。 寛政4年(1792年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた。 寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。 結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・幸(さき)、寛政8年(1796年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。
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