戯作者としての出発とは? わかりやすく解説

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戯作者としての出発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:08 UTC 版)

曲亭馬琴」の記事における「戯作者としての出発」の解説

寛政2年1790年)、24歳時に山東京伝訪れ弟子入り請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年1791年正月折から江戸で流行していた壬生狂言題材に「京伝門人大栄山人」の名義黄表紙尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん)』を刊行戯作者として出発したこの年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作控えることとなったこの年秋、洪水深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸書肆にも知られるようになった寛政4年1792年3月版元蔦屋重三郎見込まれ手代として雇われることになった商人仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て通称を瑣吉に、諱を解に改めた寛政5年1793年7月27歳馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴履物商売興味示さず手習い教えたり豪商所有する長屋家守いわゆる大家)をして生計立てた加藤千蔭入門して書を学び噺本黄表紙本の執筆を手がけている。寛政7年1795年)に義母没すると、後顧の憂いなく文筆業打ち込むようになり、履物はやめた結婚翌年である寛政6年1794年)には長女・幸(さき)、寛政8年1796年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年1800年)には三女・鍬(くわ)が生まれ馬琴合わせて1男3女の父親となった

※この「戯作者としての出発」の解説は、「曲亭馬琴」の解説の一部です。
「戯作者としての出発」を含む「曲亭馬琴」の記事については、「曲亭馬琴」の概要を参照ください。

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