戯曲―「戯曲集団」としての人形浄瑠璃
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「竹本織太夫 (6代目)」の記事における「戯曲―「戯曲集団」としての人形浄瑠璃」の解説
太夫の語りも、三味線も、すべては戯曲を立体化するための手段にすぎないと僕は思っています。人形浄瑠璃にとって一番大事なのは戯曲であって、つまり「戯曲集団」あるがゆえに、人形浄瑠璃は民衆に愛さ続けて来たわけです。加えて大事なのが、上方で生き続けてきたということ。例えば、文楽の『摂州合邦辻』は、謡曲の『弱法師』や説教節の『しんとく丸』を脚色して作られた作品で、現代では蜷川幸雄さん演出の舞台『身毒丸』にもアレンジされています。さらにもとをたどっていくと、『今昔物語集』にも出てくるアショーカ王の話や、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』とも似ているのです。母と息子の結婚や邪恋、盲目、追放、放浪といった共通の要素があり、これらの物語に繋がりがあることを感じます。ギリシャ悲劇がインドに伝わり、シルクロードを通って日本の玄関・摂津国(現在の大阪)の住吉の津に上陸した。そこで上方の芸能に取り込まれて、大阪人が徹底的に人形浄瑠璃化したわけです。俊徳丸や浅香姫などの登場人物の名前も、大阪の地名からとっているということは、地元の人ならすぐに気づくでしょう。 大阪は商業の街。商いをしてなんぼの土地柄なんです。そこでいろんなものを持ち込んでは作り直すという作業が大事になってくる。そもそも人形浄瑠璃は、竹本義太夫が1684年に大阪に竹本座を開いて興行として成立させたわけですが、その発展は、近松門左衛門の出現なしには考えられません。近松が取り入れた合作制度は、新しいドラマツルギー(戯曲の制作手法)を生み出しました。そのコアになったのが「趣向」です。趣向は脚本に変化をもたらし、構成を複雑化させた。事件の展開に意外性を盛り込み、入り組んだ人間関係を構築することで、戯曲はより魅力のあるものになっていきました。やがて義太夫は芸に専念し、浄瑠璃作者でもあった竹田出雲が座本を担当し、近松は座付の浄瑠璃作者として才能を発揮するという三者提携体制が確立していきます。 これは、興行という、システムの進化ですよね。演出面でも、現在の文楽の人形は三人遣いですが、人形浄瑠璃が成立した当初は一人遣いだった。三味線も、伴奏楽器から演出効果楽器になり、三味線の手数や技巧もどんどん工夫され進化した。こうして考えると、人形浄瑠璃が今までたどって来た道はすごく革新的だったんです。同じ戯曲で歌舞伎の趣向が面白いと思ったら、それをまた逆輸入して取り入れてるという例もたくさんありますよ。 文楽の戯曲に不条理な悲劇が多いのは、「人間のあるがままの本質を描いているから」だと思います。浄瑠璃作者は誰かを徹底的に悪人に描いたり、反対に極端な善人に描いたりはしていないんです。「人間というのはこんなもんだ」という普遍的なテーマに、登場人物にふさわしい言葉や行為を用意して、それぞれの人物像について何通りもの解釈ができるようになっている。人間の心というのは複雑で、簡単に理解できるものではない、ということでしょう。
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