戯曲『エルナニ』とそのオペラ化
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「エルナーニ」の記事における「戯曲『エルナニ』とそのオペラ化」の解説
ユーゴー作の戯曲『エルナニ』は1830年にパリ・コメディ・フランセーズ劇場で上演された。「三一致の法則(règle des trois unités)」「句またぎ(enjambement)の禁忌」など古典派演劇の大原則を逸脱し、「フランス・ロマン派演劇の創始」とされるこの作品の初演は古典派の野次、ロマン派支持者の喝采の激しい衝突を呼び、その際の騒動が「エルナニ事件(戦争)」La bataille d'Hernaniとして知られているほどの話題作だった。ヴィンチェンツォ・ベッリーニは初演直後の1830年から31年にかけて作曲を試みているが、検閲に引っ掛かり、序曲と一幕のスケッチのみで作曲を中断してしまう(w:Vincenzo Bellini#Attempts to create Ernaniを参照)。この草稿は21世紀に入ってCD化されている。 ヴェルディが題材選定を行っていた1843年においてはその興奮は醒めていたものの、『エルナニ』あるいは原作者ヴィクトル・ユーゴーの名は検閲官にとってはいまだに危険な響きをもつ存在のはずであり、モチェニーゴがなぜそういった問題作をヴェルディに提案したのか、はっきりとはわかっていない。戯曲『エルナニ』の革新性は演劇の内容よりもその表現方法に存するため、オペラ化しても安全であると踏んでいた可能性もあるし、この後ヴェネツィアの検閲当局との会談で同作のオペラ化が案外すんなりと認められたことからみて、モチェニーゴあるいはピアーヴェは何らかのルートで事前に検閲動向を知っていたとも想像される(検閲官の意向を探るのは当時台本作家の重要な職責の一つであり、ピアーヴェは生涯を通じてその点では有能ぶりを発揮している)。 一方、ピアーヴェの台本作家としての経験不足に不安を覚えたらしいヴェルディは、当時在住のミラノから数度にわたり詳細な指示を行っている。原戯曲は全5幕にも及ぶ長大なものだったが、ピアーヴェは指示に沿ってこのうち第1-3幕を思い切って短縮、単一の第1幕とした。この結果、原作で主人公エルナニがもっとも活躍する第2幕は割愛されてしまった。 また注目されるのは「最後の2幕分についてだが、できるだけユーゴーに忠実に沿った方が効果的というものだろう。(中略)原作の素晴らしい語句を落とさないようにしてもらいたい」(ピアーヴェ宛1843年10月2日付書簡)など、カットしない箇所に関しては逆に原戯曲に対する忠実性をヴェルディが要求していることである(ただし、原作では3人とも死ぬ、というラストシーンを改変している)。19世紀前半におけるイタリア・オペラでは、仮に「原作」などがあろうとも登場人物の性格付けだけを継承して、筋書は勝手に再構成、歌詞表現は音楽の都合次第で改変する、というのが(ロッシーニやドニゼッティといった大家も例外でなく)常識だっただけに、ヴェルディのこの作曲態度はまったく新しい時代を象徴するものだった。
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