戯作文学者とは? わかりやすく解説

戯作文学者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 09:52 UTC 版)

仮名垣魯文」の記事における「戯作文学者」の解説

京橋鑓屋町生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓という号を持ち俳句狂歌好み文蔵戯文小説好んで育った大きな商家丁稚となったが、人相見小説家になれば出世すると言われ18の年に花笠文京弟子となる。1849年嘉永2年19歳時に弘め摺物名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩文人芝居作家賛助俳句短歌書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴頼んで味噌揚げ作り上手になりたくば世によく熟れ甘口ぞよし」という狂歌贈られた。自作執筆の他に、先輩仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や、当時作家ではよくある売薬業営み、牛肝煉薬黒牡丹(うしのきもねりやくくろぼたん)など何種類かの丸薬販売行った1855年安政の大地震生き埋めなりかけたが、三河屋鉄五郎という版元から地震にかかわる「安政見聞誌」の執筆十両持ちかけられ渓斎英泉弟子の英寿が見て回った様子文が書いて原稿料二人で折半した当時後援者には、榎本総助、高野軒、豪商勝田幾久、細木香以(津香以山人)などがいた。同じ香以山人取り巻きである、条野採菊山々亭有人)、河竹新七黙阿弥)、瀬川如皐河鍋暁斎落合芳幾其角堂永幾らとも親しくした。巻物草双紙滑稽本数十著し安政年間には名を為し1860年万延元年十返舎一九流の作品同行笠名 滑稽富士詣』『荏土久里戯』は出世作となった筆名初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていたが、1873年明治6年)に仮名垣魯文とした。師のと文の字を取って文、「仮名垣」は、柳亭種彦の『正本製三編、『当年積雪標紙』の登場人物赤本入道仮名垣による(歌川豊国による入道挿絵文の顔とが似ていたため)。山々亭有人たちと三題噺グループ粋狂連」を結成し作品でも落語から取ってきた笑い使っている。 文の門下として、伊東塘、花笠文京雑賀香、若菜胡蝶園、野崎左文斎藤緑雨などがあげられる

※この「戯作文学者」の解説は、「仮名垣魯文」の解説の一部です。
「戯作文学者」を含む「仮名垣魯文」の記事については、「仮名垣魯文」の概要を参照ください。

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