馬琴の『独考』評価
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馬琴は、『独考』をはじめて一読したときの印象を「紫女清氏にも立ちまさりて、男だましひある」と述べ、女性の身で経済を論じるのは平安時代の紫式部や清少納言にまさって「男だましひ」あると評価したのは上記の通りである。また、「ふみの書きざま尊大にて…その説どものよきわろきはとまくかくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。只惜むべきことは、まことの道をしらざりける。不学不問の心を師としてろうじ(論じ)つけたるものなれば、かたはらいたきこと多かり。はじめより玉工の手を経て、飽(あく)まで磨かれなば、かの連城の価におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾のみちのくに埋(うづ)みぬることよとおもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり」 とも記し、「多く得がたき見識」があり、磨けば光る玉であると述べながら「まことの道をしらざりける」ことを惜しんでいる。 「まことの道」とは、狭義には儒教道徳であるが、広義には「真の学問的方法論」であると考えられる。「連城の価(連城の璧)」とは、中国の戦国時代の故事における、秦の昭襄王が自領にある15の城と交換に入手しようとした宝玉のことを指しており、これは、真葛に対するきわめて高い評価といえる。しかし、馬琴は『独考論』を「教訓を旨として」書いたと述べており、真葛に対しては当時の知識人の常識ともいうべき学問の王道、ものの考え方の筋道を教えようとしたのであって、真葛を対等の論争相手と見なしていない。また、「ふみの書きざま尊大」とあるように、自分あての気安い依頼の手紙の書き出しや、本居宣長や賀茂真淵にさほど敬意をはらわずに文章の拍子の早さ遅さを論じたり、儒教道徳について歯に衣着せぬ批判を展開している点に尊大さを感じていたようで、「高慢の鼻をひしぎしにぞ」 とも記している。 「真葛のおうな」によれば、文政3年(1820年)春、『独考論』を送った馬琴のもとに真葛と萩尼の手紙が寄せられた。萩尼の手紙は怒りのにじむものであった が、真葛からの手紙は、 おんいとまなき冬の日に、ふみやどものせめ奉る春のもうけのわざをすらよそにして、こうながながしきことをつづりて、おしえ導き給わせし、御こころの程あらわれて、限りもない幸せにこそ侍れ。なおながき世に、このめぐみをかえし奉るべし という丁重なものであった。 馬琴が、『独考』の出版は難しいかもしれないが写本による方法があると真葛あての手紙に記したとき、『独考』の写本を「心ある人」に見せれば、「十人に二、三人」はそれを書写するであろうと述べている。実際、馬琴自身も『独考』を書き写した うえで『独考論』を著している。そして、『独考論』の数年後の文政8年(1825年)10月1日に『真葛のおうな』を発表しているが、それは、真葛の亡くなった約半年後のことであった。『真葛のおうな』のなかでは、みずからの『独考論』(『独考』批判)について、「人に信をもてするに、怒りを恐れていさめざらんは、交遊の義にあらず」と弁明している。 馬琴が、真葛の死を知ったのは翌文政9年(1826年)のことであった。松島へ行く知人に頼んで消息を尋ねたが、亡くなったあとであった。馬琴はこれを嘆いて、「件の老女は癇症いよいよ甚しく、つひに黄泉に赴きしといふ。予はじめて其訃を聞て嘆息にたへず、記憶の為めこゝに記す」という一文をのこしている(『著作堂雑記』文政9年4月7日条)。 こののち馬琴は、天保3年(1832年)ごろには真葛の『奥州波奈志』や『いそづたひ』に奥書を記し、天保13年(1842年)にはみずからの代表作となった『南総里見八犬伝』九輯(完結部)の「回外剰筆」にも真葛の名と『独考』など彼女の著作を紹介する文を掲載している。かつては、その博学と卓越した文章力によって徹底した批判を加えた『独考』であったが、馬琴の胸中には長く『独考』とその筆者只野真葛のことは残り続けたのである。
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