飯塚系の緑埜、甘楽・多胡、(藤岡)、新田系
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飯塚系は、臥龍斎の養子・飯塚帯刀義高からその子・興高が13代、14代に興高の弟・義興と続き、義興の周辺で諸流に分かれている。 『上毛剣術史』には代数のある流派として、義興の高弟・根岸登美太と関口万蔵の2系統、および義興の兄弟弟子・長山弥一からその弟子・高山辰次郎へ続く1流を載せる。 飯塚系の気楽流(戸田流)は、上州、飯塚の出身地である西上州の緑埜郡、甘楽郡、多胡郡をはじめ、勢多郡、佐位郡、那波郡、新田郡といった’農村部や、臥龍斎が道場を開いた江戸愛宕下を拠点として、盛隆を大いに極めた。 しかし、飯塚臥龍斎が中山道の新町宿での新町騒動以降、戸田流の流儀名乗りを禁止されたことに加え、所払いを受けたことを受け、闕所にともなう親族からの久離により、飯塚臥龍斎が武蔵国菅沼村の菅沼勇輔方に転居したことから、養子義高が気楽流として12世として臥龍斎の出生地の大塚村で継承。 次代龍之介興高(13世)が早世し、飯塚猪早司義興(伊三郎)((14世)龍之助の弟)は、甘楽郡小幡轟に道場を開き教授し、平柳真龍斎義長(九三郎)は、臥龍斎の出身地である緑埜郡下大塚村で柳盛館を開き、14世となった。 幕末明治維新の混乱の中、門弟が出身地や思想の差異から、佐幕、勤王側に分かれて活動したこと、寛政の改革以降、設置されて、尚武の気風と武術練兵の中心的役割を果たしていた幕府講武所が文久2年(1864年)9月には、犬追物弓術柔術部門は廃止され、剣槍砲術と操船技術のみとなったことにより、江戸、徳川幕府での講武所師範の失業(ただし、地方の藩での武術師範は残存したことに注意)、明治新政府になり、警察機構の整備により、関八州組合での与力業務の要請がなくなり、農民の自警の必要性が減ったこと、さらには、師範が日露戦争の出征時に捕虜となったこと等を遠因として、一部道場では弟子が離反したこと、そして、大きくは、大日本武徳会、講道館柔道の隆盛の中で柔道の一流儀として、内務警察中心の翼賛運動や、学校体育教育の中に取り込まれたこと、そして、それらが敗戦後のGHQによる武道禁止となったことなどの社会構造の変化から門弟数は大幅に減少した。 これらは、飯塚系に限らず、菅沼系、児島系の気楽流に多く共通することである。 岩井作夫によれば、この系統の気楽流の体系は、飯塚興高が早世し、義興は興高の弟子・長山から教授を受けるという経緯のため、全て伝わっていないと述べるが、群馬県新田郡綿内村の高山辰二郎門下で、山伏、修験者であり、他流やボクシング選手との対決を行った下田茂平が高名であり、その弟子の光輪洞合気道師範の川野郁夫や、筑波大教授の藤堂良明らがおり、現在も引き続き教授が行われている。
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