阪大真空管計算機
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引き続いて、1950年から2進方式の阪大真空管計算機の研究試作を進めた。 研究を進めるうち、EDVACの報告書のマイクロフィルムを1952年に購入、EDSACのプログラミングについて詳解した、世界初のプログラミングの書籍であるウィルクスらの "The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer" も1951年に出版されるや入手し、2進演算の採用やプログラム内蔵方式など、いわゆるノイマン型のコンピュータとすることが固まった。このころ岡崎もこれらの資料の交換のために何度か訪れていた。 次の開発では全面的に2進演算を取り入れることを考えたが、それにはダイオードを大量に入手することが不可欠であった。当時最新のダイオードはゲルマニウムダイオード[要出典]で、国産品にはなかったため輸入する必要があった[要出典]が、輸入理由書の作成や国への申請など面倒な手続が多かった。 プログラム内蔵方式のためにはそれなりの容量の記憶装置が必要である。真空管の0と1の2値状態で記憶させる方法が考えられるが、これでは多くの真空管を要することになる。そこで高速で大容量の蓄積できるハード、すなわちメモリが必要であった。当時メモリ用としては、ウィリアムス管と水銀遅延線などが知られていた。前者はブラウン管の帯電を利用するものである。後者は戦時中にレーダーのために作られた装置の応用で、水銀媒体を詰めた管の一端から音波パルスで信号を順次入れて一定の遅延時間を稼いだ後に他端で受信して増幅して再び信号列を戻して循環させることにより記憶を保持する方式であった。しかしどちらも開発途中であり安定性に乏しかった[要出典]。城らは水銀遅延線を当初開発したが、水銀の温度が変化すると密度が変わり超音波の伝播時間も違ってくるので、水銀の温度誤差を0.3℃[要出典]と厳しくコントロールさせた。また水銀中毒にも注意して実験を繰り返した。以上の検討の後、さらに完全なるコンピュータを目指して開発が続けられた。[要出典]1953年には、それまでの研究成果をまとめて科学研究費を申請し、80万円を得ることができた。( ← 水銀遅延線の開発が1953年以前のことですか?) こうして1959年まで開発が続けられ、阪大コンピュータはほぼ完成した。それは、2進演算方式を採用し、メモリには媒体を水銀からガラスに変更した超音波遅延記憶装置を使用し、記憶容量は1024語であった。使用真空管は約1,500本、ゲルマニウムダイオードは約4,000本が使われていた。それを幅4m・高さ2.1mのパネルに、狭い実験室に置けるようコの字型に配置し、2台の扇風機で冷却した。計算速度は、クロック周波数を1MHzと、日本の当時の他のコンピュータと比べてかなり高くしている(FUJICは30kHz、TACは330kHz)ため、加減算の実行時間は0.04ミリ秒と高速であった(これは遅延記憶装置の1ビットぶんのパルスをそのまま本体のクロックにしているためである。水銀遅延線を使ったFUJICも記憶装置には1MHzほどのクロックを使っている)。城はこうして開発したコンピュータを使って円周率を小数点以下10万桁まで計算し、その10万桁目の数が「6」であることを知っているのは日本で私だけだと自慢していた。[要出典] なお、文献等では「各装置はほとんどでき上がり,計算機全体の調整を行う段階には到達した」(『日本のコンピュータの歴史』p. 88)、「加減乗除がうまくいった」(『計算機屋かく戦えり』ハードカバー版 p. 190)、「ついに完成をみなかった.」(情報処理学会コンピュータ博物館ウェブサイト)とある。
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