阪大理学部時代
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帰国後間もなく、大阪に帝国大学を作ろうという声が関西経済界を中心として起こり、緒方洪庵創始の適塾の伝統を継ぐ府立大阪医大を医学部とし、理学部を新設してこの2学部による大阪帝大(現大阪大学)設立の準備が始まり、1932年仁田は創立委員になった。理研からはほかに小竹無二雄(化学)、菊池正士(物理学)が参加した。1933年4月第1回の学生が入学し、仁田は物理化学第一講座担当の教授として量子力学、熱力学、統計力学を基礎とする物理化学の講義を行った。仁田自身この講義の原稿をつくるのは難事業だったと述懐しているが、これ以降理学部化学科(旧制)の1年生はいきなりシュレーディンガー方程式が出てくる仁田の講義で悩まされることになる。 阪大理学部は当初、数学、物理学、化学の3学科でスタートした。初代長岡半太郎総長の方針で、若手の俊秀を集めた未来志向型の学部だった。3学科が同じ建物に同居していることも特色の一つで、3学科のいわば"異業種"交流は非常にうまく機能した。仁田は研究室の設立当初から、「結晶化学」の構想を描き、結晶が関与する化学反応(触媒作用)、構造研究、構造に基づく物性研究を目指した(1949年共立出版発行の"理論化学の進歩"第1集、水島三一郎、仁田勇共編、p.298)。反応については最近になってトンネル分光法や原子間力顕微鏡などの最先端研究法が普及して本格的な研究ができるようになったが、当初はX線回折による構造研究を主力とし、電気・磁気的性質、熱的性質の研究を従とした。物性研究が軌道に乗るにつれてX線回折との連携の歯車がうまく回るようになり、単なる静止構造の研究に留まらず、相転移現象、結晶内の分子運動と乱れ、X線散漫散乱へと研究の範囲も急速に拡大した。 仁田の研究に対する基本的な考え方は、研究課題の選択の仕方に如実に表れている。つまりある研究課題を取上げるとき、その研究を成功させたら、自然についてわれわれの理解はどれだけ深まるのか、それによって科学はほんとうに進歩するかということが判断基準であった。またそのような研究課題を発掘してとりあげた。学生に卒業論文のテーマを与えるときでも、この原則を曲げなかった。学生の理解を超えることがしばしばだったが、仁田は独り言のように、その研究の意義を説いた。 仁田の研究は、その時々の最先端をいくものであった。X線回折だけに限っても、最高の精度の測定をし、その実験結果から導き出せるかぎりの情報を分析して結論を得る。したがって、その成果は当然前人未到のものであるが、いざ論文として発表するときは、極めて慎重で、「...である。」と言ってもいいのにと弟子が思っても、「...と考えられる。」となってしまうことがしばしばあった。仁田に自信がなかったのではなく、テーマが意欲的であればあるほど、結論には謙虚さが目立った。
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