鉄器の発明と伝播
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:51 UTC 版)
鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていた。ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。 最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。 いったん拡散が開始されると、製鉄技術はかなりの速度で旧大陸の各地に伝播していった。アフリカにおいては、紀元前5世紀ごろにはナイジェリア中央部のジョス高原にノク文化が成立したが、この文化は溶鉱炉による鉄の精練を行っていた。また同時期、スーダンのメロエにおいても大量の製鉄が行われていた。このアフリカへの製鉄の伝播ルートとしては、メロエからアフリカ全土へと製鉄法が伝えられたという説と、メロエと西アフリカに同時期に別ルートで製鉄法が伝えられ、それが伝播していったとの説、それに西アフリカで独自に製鉄法が開発されたとの説がある。かつては第一の説が有力であったが、西アフリカにおける製鉄開始の年代がかなり古いと考えられることや、メロエと西アフリカの製鉄法がまったく異なることから現在では有力説とは言えない。また、サハラ以南アフリカにおいては青銅器は鉄器とともに拡散しており、単独の青銅器時代がなく石器時代から直接鉄器時代に移行したのも特色である。また、紀元前1500年ごろから急速な移動と拡大を続けていたバントゥー系民族にも鉄器製造技術は受容され、紀元前3世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に達した。この地域はバントゥー系民族の第二次拡散の中心地であり、ここから東アフリカや中部アフリカ、南部アフリカへと鉄器文明は急速に拡大した。 ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろからこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろからスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。 中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。 一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えている。
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