移動と拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:47 UTC 版)
1781年までに、ドラッギング・カヌーは元のチェロキー族集落の者やマスコギー族に対する働きかけを続けた。チカソー族、ショーニー族およびデラウェア族は繰り返しカンバーランドの開拓者を襲った。チカソー族がカンバーランドを襲った3ヶ月後、その年の4月に、チカマウガの最初の攻撃があり、ブラフの戦いとして知られるようになった。 その年の秋、イギリス軍が策謀してある種のクーデターを起こし、より平和的であったオコノストタの代わりにレイブンをオーバーヒル・チェロキーの主要な指導者とした。その後数年間オーバーヒル・チェロキー族は公然とドラッギング・カヌーとそのチカマウガ・チェロキー族を支援するようになった。しかし、その後はまた、他の指導者が平和的な指導者オールド・タッセルを選び、ドラッギング・カヌーに対する支援は水面下に沈んだ。 1782年、再びセビアの遠征隊がチカマウガを破壊しその周辺の集落も破壊した。この時は、ドラッギング・カヌーは集落を再建せずに西方へ移動し、自然の要害になっていた所にファイブ・ローワー・タウンズを築いた。 ファイブ・ローワー・タウンズとは、ドラッギング・カヌーが本拠を置くランニング・ウォーター、ニッカジャック、ロングアイランド、クロウタウンおよびルックアウト・マウンテンの5集落であった。少数の戦士の1隊がタスケギー・アイランド集落を再占領して見張り所とし、開拓地に対する侵略の警告とした。 この動きはマスコギー族領地の周縁部であったので、ドラッギング・カヌーは前もってリトルオウル以下の代表をマスコギー族の酋長アレクサンダー・マギリブレーの下に送り許可を求めていた。チカマウガが本拠を移したので、イギリスの代表であるキャメロンとマクドナルドもランニング・ウォーターを南東部の活動拠点とした。一方、トマス・ブラウンはアメリカ側に寝返って、チカソー族に対するアメリカの代理人として西テネシーに住み、アメリカとスペインを戦わせようとしていたが、イギリスにはほとんど興味がなかった。ドラッギング・カヌーのもう一人の兄弟タートル・アットホームが70名程の戦士を連れて北に行き、ショーニー族と共に戦った。 チカマウガ・チェロキー族のもとには、他のチェロキーや逃亡奴隷、王党派の白人、マスコギー族、コウシャッタ族、ナチェズ族などのインディアン、さらにスペイン人、フランス人、アイルランド人、ドイツ人まで加わってきた。チカマウガの集落はウィルスタウンなどのアラバマまで広範囲に膨れ上がった。この膨張はセビアなどの破壊活動から逃れて北ジョージアから流入したチェロキー族によるところが大きかった。 他にも同盟インディアンの集落がテネシー川のコールドウォーター・クリーク河口にできた。そこはテネシー川渓谷にあってやはり天然の要害であった。このインディアンはウォバッシュ川のフランス人交易業者から武器や物資の補給を受けていた。
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