金融庁との対立と特別検査
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「UFJ銀行」の記事における「金融庁との対立と特別検査」の解説
2003年(平成15年)10月に実施された『金融庁特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にMOF担だった早川潜常務(一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧・三和銀行は、尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件(別名・ノーパンしゃぶしゃぶ事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に東京地方検察庁特別捜査部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、「海外はやめて、地方銀行になればいい」という、UFJの検査を統括する目黒謙一・金融庁検査局検査管理官のこの一言で決定的となり、「金融庁は当行を狙い撃ちにして、潰そうとしている」と解釈し、金融当局からの宣戦布告と受け止めた。その検査の過程で、敵対派閥からと見られる内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場担当の目黒検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年(平成16年)1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年(平成16年)4月、今度は中日新聞がスクープの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。この2期連続の赤字となり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取の寺西正司は退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、2004年(平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、銀行法違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受け、同12月には東京地検特捜部は同法容疑で岡崎元副頭取ら3人を逮捕した。
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