郷土資料館から博物館へ(1975-1988)
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「土浦市立博物館」の記事における「郷土資料館から博物館へ(1975-1988)」の解説
土浦市立博物館のある土地は、土浦城二の丸跡にあたり、近代に憲兵隊の施設が置かれ、筑波学園都市事務所や土浦市立図書館に転用された。市立図書館は1973年(昭和48年)12月8日に開館した土浦石岡地方社会教育センター(現・土浦市生涯学習館)の中へ移転し、図書館の跡地利用が検討された。当時の土浦市は好景気に沸いており、住宅を新築する市民が多く、その際に古い家財道具などが処分される傾向にあった。時の市長・野口敏雄は、各家庭に眠る資料が失われる前に郷土資料館を設置する構想を立てた。 しかし資料館を整備する資金もノウハウもなかった土浦市当局は、資料収集や館内展示に市民の力を頼ることにしたのであった。実際に資料館の収蔵資料は大部分が市民からの寄贈や寄託品で占められることになり、笠間市・龍ケ崎市・谷田部町(現・つくば市)といった近隣地域や遠くは千葉県銚子市や山口県下関市からも資料が寄贈された。資料館運営では、当時土浦市内にあった陸上自衛隊霞ヶ浦駐とん地史料館に協力を要請した。 こうして1975年(昭和50年)4月に組織としての土浦市立郷土資料館が発足し、同年11月1日に正式に開館した。郷土資料館では土浦市の民俗、文化、自然科学などに関する資料を収集・展示していたが、当時の館員は「予算を最小限に抑えた素人の手作り資料館」だったと述懐している。実際、学芸員の配置もなく、資料収集・調査研究のどちらも進まなかったという。初代・石川館長は以下のような言葉を館頭に掲げ、この言葉は資料館の基本精神となった。 「 この資料館には、特に珍らしいものや高価なものは展示されていないが、この土地に残されたさまざまな資料等を展示保管することにより、先人達の生活を偲び、その様子を長く後世に伝えるものである。 」 憲兵隊が使用していた2階建ての木造建築物を改造した郷土資料館は貴重資料の保管には適しておらず、1979年(昭和54年)4月には「第3次土浦市総合計画」の中に郷土資料館の整備拡充が盛り込まれた。1985年(昭和60年)5月には「昭和61年度公立社会教育施設整備計画書」が策定され、博物館の設置が明記されると同時に学芸員が配置され、本格的に博物館整備が開始した。この時採用された2人の学芸員と7人の博物館建設ワーキンググループが常設展示の基本構想を練り上げた。同年7月には国庫補助を申請するも9月に取り下げ、博物館の整備にかかる費用を全額土浦市の予算(地方債と一般財源)で賄うことにした。同月には土浦市が指名した4業者に基本構想設計を依頼し、12月に株式会社アトリエ・Kの案を採用することを決定、丹青社と展示基本設計委託契約を締結した。アトリエ・Kとの実施設計業務委託契約は翌1986年(昭和61年)2月に締結された。同年6月には建築工事の入札が行われ、山本工務店が落札した。 博物館計画が進行する中で、土浦市立郷土資料館は10年ほどの歴史に幕を下ろした。この間に資料館を訪れた人は約20万人であった。 1986年(昭和61年)7月18日に着工し、1987年(昭和62年)10月20日に建築工事が竣工するとともに展示工事が始まり、1988年(昭和63年)4月30日に展示工事が竣工した。総工費は約12億円で、補助金を受けず全額市の費用で工事が行われた。この間に土浦市博物館条例の制定と館長の委嘱が行われ、初代館長に歴史地理学者の黒崎千春(筑波大学・八千代国際大学教授)が就任した。
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