郡山・窪田での両軍対峙とは? わかりやすく解説

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郡山・窪田での両軍対峙(5月 - 7月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 03:46 UTC 版)

郡山合戦」の記事における「郡山・窪田での両軍対峙(5月 - 7月)」の解説

5月22日政宗は自ら兵を率いて小手森城攻撃開始した天候の悪化により一旦大森城退いた。ところが、閏5月12日相馬義胤田村清顕政宗岳父・妻は義胤叔母没後伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村氏所領確保して小手森城蘆名勢の後詰めするべく、自ら三春城へと向かったが、田村家中の伊達派・橋本顕徳らに阻まれ入城果たせずに退去した。相馬勢の撤退承け政宗宮森城に陣を構えて再び小手森城攻略乗り出した。閏5月16日小手森城陥落し石川光昌相馬領へと逃れていった。17日には大倉城、18日には月山百目木石沢諸城陥落する19日には船引城から義胤が退去し東安方面における相馬方の戦線崩壊苦境立った義胤は佐竹義重蘆名義広岩城常隆救援求めた佐竹蘆名両氏直ちにこれに応じるが、田村清顕存命中から田村領に侵攻していた常隆は義胤の三春入城に異を唱えて援軍拒否した田村領が伊達氏相馬氏岩城氏による三つ巴対象になっていたことがこの戦い複雑なものにした。 6月に入ると佐竹蘆名連合軍郡山方面向かって兵を進めた。これは宮森城に近い本宮方面への侵攻予想していた政宗思惑裏切るものであったが、政宗郡山救援に向かうべく、宮森城出て本宮から郡山向かったまた、田村氏からも田村月斎田村梅雪斎援軍として駆けつけて、伊達氏一門である留守政景14日援軍駆けつけている。 6月12日郡山窪田両城向けて兵を進めた連合軍伊達勢が対峙して互いに砦を築き以降40日間わたって延々小競り合い繰り返した政宗によれば連合軍は約八千騎、伊達勢は約六百騎、貞山治家記録には連合軍約四千騎、伊達勢約六百騎と兵数伊達軍圧倒的に不利であった伊達勢は伊達成実政宗の命により山王山陣所とする。「堀を掘、土手を築、如要害構へ」られた成実陣所連合軍は落とすことができなかった。その上阿武隈川沿いの篠川城伊達側にあり、連合軍背後敵勢力を置いた状況伊達勢と対峙せねばならなかった。また昼夜止むことなく互いに四、五千発の鉄砲撃ちあう激し銃撃戦が行われたという。 こうした中、最上氏大崎氏との抗争継続していて且つ田村領に軍勢派遣している政宗兵力集中できず、軍勢の数では蘆名佐竹相馬方と比べて非常に劣っていた。こうした状況下で次第郡山城への連絡厳しくなり、戦況不利を悟った政宗6月21日大和田筑後守岩城氏のもとに派遣する。これは和平交渉のためであった考えられている。岩城氏は南奥のほとんどの勢力がこの戦争関与していることを危惧していたためかこれに速やかに応じ26日には大和田筑後守帰還7月2日岩城氏家中志賀甘釣斎が和平交渉死者として派遣され4日には子息志賀武清が伊達陣中到着する7月4日窪田守っていた片倉景綱伊達成実前方蘆名方、新国貞通の部隊通過した景綱弟の片倉藤左衛門新国を追わせたところ、深追いして蘆名軍に囲まれた。景綱成実はこれを救うべく戦闘したが、引き上げ苦戦した伊東重信討死にするも、反撃転じ五十余人討ち取って引き上げた両軍共に大規模な攻勢仕掛けられなかった理由としては、伊達方からすれば寡兵であること、大崎最上勢の進軍停止し和睦交渉始まったとはいえ伊達北方では依然として予断許さぬ状況続いており、また大崎合戦敗北による痛手癒えておらず、積極攻勢打って出られるような状態には無く一方蘆名方も、頼み佐竹義重豊臣秀吉から再三にわたり前年12月惣無事令則して子・義広と甥・政宗とを速やかに和睦させるよう督促されており、同様に決戦能力欠いていたことが挙げられる惣無事令影響について小林清治一時的に一定の影響与えながらも、基本的に対立対決動き抑制するには無効であったとする。また戸谷穂高惣無事令往来見解疑問提示したうえで、豊臣政権による積極的な調停一部限定されていたとし、郡山合戦への影響認めない一方城郭研究松岡進は、普請作事一体化した簡易な遮断施設野戦築城として広く活用されていた事実注目する郡山合戦伊達方郡山城めぐって伊達軍連合軍対陣し相互に陣地形成するなどしたため長期戦様相呈していたと整理できる7月2日岩城常隆石川昭光誘って政宗和議仲介打診した5日から弓鉄砲は止められた。交渉蘆名氏との所領画定難航したものの、7月16日には先に合意達した佐竹氏伊達氏和議が、2日後18日には蘆名氏伊達氏和議成立して佐竹氏もこれを確認21日になって夜半佐竹軍が、日の出前伊達軍撤退した

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