遺体埋葬記録とその論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)
「南京事件論争」の記事における「遺体埋葬記録とその論争」の解説
南京事件では、日本軍の違法殺人による軍人・民間人の遺体が城外で殺されたあと、長江に流された例が数多く記録されているが、城内や城外にも遺棄遺体(ただし、他の戦闘や違法でない戦闘の死亡者などの遺棄遺体などの違法殺人以外の遺体も含むので全てが虐殺(違法殺人)とは限らない)が数多く残されていたので、中国側の慈善団体である紅卍字会と崇善堂とが、多くの遺体処理を行ったことが記録も含めて残っている。両団体が4月まで行った遺体の埋葬数は、以下のとおりであり、南京城内での作業分担は、紅卍字会が安全区のある城内西側を、そして崇善堂が城内東側を担当した。 紅卍字会が、城内(主に安全区を含む城内西側)埋葬 1,795(当時の資料では1,793)、城外埋葬 41,330。 崇善堂が、城内(主に城内東側)埋葬 7,549、城外埋葬 104,718。ただし、3月まで城内で、4月より城外での埋葬。 なお、死者は城内外ともに9割以上が成人男性であり、違法殺人か戦死かは別として中国軍人が多数であるが、ミニー・ヴォートリン日記では、紅卍字会の処理遺体の3分の1は民間人の死体であった報告があり(4月2日)、紅卍字会の処理した城内1,793体の遺体の80%は民間人(4月15日)との伝聞情報を記述している。 この埋葬数に対して、東中野修道は、ジョン・ラーベの日記の中に、1月末まで近所にあった遺体の埋葬を日本側が許可しなかったとの記述があることから、ウソがあるとみなし、また崇善堂の4月以降の埋葬数が過大であり不可能な数字とみなし、同団体の存在も含めて埋葬数の信憑性が低いと述べている。また、阿羅健一は、3月に成立した日本の傀儡政権の中華民国維新政府の資料に、崇善堂の活動が再開された時期が1938年9月とのみ記されている(ただし、団体の一覧表に活動再開時期の年月のみが記述されただけであり、どのような活動の再開か、資料の背景等の詳細は全く記載されていない)ことを根拠に、それ以前は活動していないと主張した。そのうえで、水間政憲は、以上の考えから、崇善堂の埋葬活動をナシ、イコール実績なしであるとし、崇善堂の南京城外の城外埋葬104,718人と城内の東側の埋葬7,549人をゼロとみなし、南京事件の埋葬数(被害者数)は紅卍字会の埋葬、しかも城外埋葬41,330人は南京事件の被害とみなさず、城内の1,793人の埋葬のみが被害者(しかも女性・子供の様な確実に民間人と特定できる死者数はその中のわずか“34人”だった)であると主張した。 これら否定派への反論として、井上久士は、まず日本軍特務機関の記録から1月にはすでに埋葬活動そのものが許可されていたと反論し、また崇善堂もすでに長い歴史を持った現地の互助団体として不動産収入などを得て活動しており(日本側がこの団体に埋葬を委託した資料はないが)、南京市自治委員会への書簡などの具体的資料により崇善堂の1-2月の埋葬活動が確認できている、資料にある崇善堂が再開された1938年9月は南京の行政機構に正式に再登録された意味であると述べている。ただし、同氏は、4月以降の埋葬数が多いのは、3月にはもう遺体の損傷が激しくなったので多数の遺体が粗雑に埋葬されたためかもしれないが、粗雑であれば埋葬数字の信頼性も低い(が埋葬活動の全面否定まではされない)と推察する。また、崇善堂の埋葬活動に関する記録はたしかに少ないことを認めつつも、即、偽資料や捏造と呼ぶことについては、資料をあげつつ批判している。実際に南京裁判の崇善堂関係者からの提出資料によれば、従来の慈善事業に加えこの時期埋葬隊を組織したことを述べている。 崇善堂の埋葬数が急増するのは4月以降城外での作業に移ってからで、4つの隊、1隊は作業員10名で埋葬を行っている。この時期、埋葬ペースの高い隊は4月9日から4月18日までの10日間で26,612体、1日1人当り266体を埋葬している。埋葬に参加した崔金貴は遺体は近くに穴を掘って埋めるか、もともとあった濠(クリークのことと思われる)まで引いて行って投げ入れて土をかける形であったとする。虐殺は城外での方が激しかったという話もあり、大量の捕虜や敗残兵狩りにあった住民が一か所に集められて集団処刑され、その場所で腐敗の進んだ死体をこの地域に縦横に張巡らされたクリークに放り込む形で集中的に処理できたところも多かったとすれば、必ずしも不可能とは考えられない。 また、紅卍字会の記録には、わずか1日で6,000体の城外の埋葬という記録があり、その記録を虚構という説があるが、洞富雄が中国にある原本を調べたところ、そのときは長江沿いに遺棄された大量の遺体をそのまま長江に(埋葬せず)流したと記載されているので、説明がつくと述べた。
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