返還前の過渡期
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香港の主権移譲に際し、中英両国は外交交渉による香港問題の解決で合意した。1984年、両国は『中英共同声明』に署名し、1997年7月1日をもって中華人民共和国に香港の主権が移譲されることが決定した。これより香港返還の過渡期に突入し、香港の教育も例外ではなかった。この時期の香港の教育制度は専門教育と教育行政の面で大きな発展を遂げた。 1981年6月、香港政庁は国際顧問団への参考資料として『香港教育制度全面検討』という報告書を作成、さらに顧問団は香港の教育実情を考察した後に『香港教育透視』という報告書を提出した。内容は斬新さに欠けるが、香港の教育政策に対し可視的な評価が行われたことで教育界の好評を獲得し、香港政庁もこれを採用した。1970年代末の9年間無料教育制度実施以降、住民の教育に対する要求は相対的に高まり、高級中学への進学率が継続して増加した。公立学校の統計では1978年に発表された教育白書の60%の水準であったが、多くの学生が中学3年終了後に私立学校へ進学するケースが増加し、1980年にはすでに90%の進学率を実現した。また香港政庁の教育統籌委員会の統計でも1983年の高級中学への進学率は、学費の公費補助の影響もあり84.6%を記録、高級中学教育が全面的に普及した。 しかし高級中学への進学熱が高まるに従い、予科及び大学進学との間に深刻な定員格差が生じることとなり、1981年には大学の定員は該当年齢層の2%を満足させる定員数でしかなかった。1978年の白書によれば10年間での高等教育定員は年間3%の増大が限界であり、その増加率は非常に緩慢なものであった。1980年代中期、香港政庁は高等教育への予算配分を行い、2000年までに定員率を14.5%に増加させる政策を示した。1988年、香港総督のデビッド・クライブ・ウィルソンは施政報告中で高等教育進学率向上を掲げ、14.5%の目標を1994年に前倒し、2000年に18%を達成することを掲げた。 1989年の六四天安門事件後、香港総督は2000年の高等教育進学率18%を1994年に前倒しさせることを宣言した。当年の進学率は僅か6%であり、5年以内に進学率を3倍とすることを目標とした。目標実現のために香港政府は大学2校ので学士定員を増設したほか、香港科技大学を香港3番目の大学として設立した。1980年代待つの急速な高等教育推進政策は一般的にビジネス界と政治的な要素により策定されたものと考えられている。ビジネス界は中国返還後に人材不足を恐れ、人材育成を香港内で育成すること希望したことと、天安門事件の事件の結果民主主義の発展に高等教育は不可欠であると認識され、これらの政策が実施された。1993年、香港理工学院、城市理工学院、香港浸会学院が大学に昇格、これらの政策により高等教育の供給過剰の問題が生じ、大学の教育水準の位置及び卒業生の進路等の問題が発生し、この1990年代の問題は現在も解決されていない。 また注目すべきは1980年代に職業教育が相当の発展を見ている事実である。1982年2月、香港訓練局は職業訓練局と改編され、その下部組織として香港労工処の職業訓練部門(主に職業訓練中心と学徒訓練計画)と教育署の工業教育部門(主に工業学院)が合併し工業教育及訓練署が設立された。職訓局はその後既存の5校の工業学院を基礎に、1986年に創立した屯門工業学院と沙田工業学院及び1988年創立の柴湾工業学院を工業学院に昇格させた。また1984年10月22日に香港城市理工学院が開校している。芸術関連の人材育成では同年香港演芸学院を設置している。
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