近代国家の独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「アルメニア第一共和国」を参照 ロシアからもグルジア、アゼルバイジャンからも切り捨てられ、アルメニア人はオスマン軍の前に投げ出された。そして多くの議論の末、翌28日にはアルメニア人も「アルメニア共和国」の独立を宣言せざるを得なくなった。中世キリキア王国の滅亡以来、数百年にわたって彼らが夢見続けたはずの独立回復は、絶望的な状況下での苦渋の選択の結果にすぎなかった。 6月4日にはオスマンとのバトゥム条約(英語版)によって、アルメニアの領域はアレクサンドロポリまで後退した。さらに、この僅少な領域には虐殺を逃れて数十万のアルメニア人が押し寄せ、エレヴァンは難民キャンプの様相を呈した。チフス、コレラや飢餓が蔓延し、最初の6か月で18万人が死んでいった。加えて、国の舵取りを任されたダシュナク党政権には、民族意識の強い革命家やゲリラ上がりばかりで、山積する問題に対処できる実務官僚は皆無であった。さらには周辺国家とも領土主張で折り合いがつかず、北部ではロリ地方をめぐって対グルジア戦争(フランス語版)が、東部ではカラバフを巡って対アゼルバイジャン戦争(英語版)が発生した(アルメニア人とアゼルバイジャン人の関係は特に険悪で、同年にはバクーでも三月事件(英語版)や九月事件(英語版)などで、虐殺の応酬が発生している)。 幸いにして、10月にはオスマンが連合国との間にムドロス休戦協定を受け入れ、オスマン軍の撤退によってアルメニアは、大戦前の領域まで支配圏を回復した。西欧列強はアルメニアへの関心を取り戻し、合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンのように、アルメニアの東アナトリア領有を具体的に認めようとする動きも現われた(ウィルソンのアルメニア(英語版))。しかし、1919年1月のパリ講和会議にオブザーバーとして招かれた際にも、アルメニア代表は、東アナトリアからキリキアまでを含めた到底実現不可能な領土主張に固執して、自国の立場を悪化させた。結局、この会議ではアルメニアについては何も決定されず、またどの国もアルメニアを国家承認しようとはしなかった。 1920年に入り、ロシア内戦でのボリシェヴィキの勝利が決定的になった段階でようやく、カフカース防共の壁の必要性から、列強はロンドン会議(英語版)においてアルメニアの国家承認を行った。また領土問題については、アルメニアの要求すべてには沿えないながらも、エルズルム(英語版)、トラブゾン(英語版)、ヴァン(英語版)、ビトリス(英語版)4州の大部分をオスマンがアルメニアに与えることが、同年8月のセーヴル条約第88条において確認された。しかし、このころのアルメニアはすでに財政破綻を起こしており、紙幣増刷による赤字補填から半年で2,800パーセントに上るインフレに陥っていた。列強にもこの領域を委任統治する余裕などなく、ウィルソンの個人的熱意も合衆国議会によって否決された。 また、アナトリア全域を列強に分割されるというこのセーヴル条約の内容は、トルコ人にとっては到底受け入れがたいものであった。武装解除を免れていたオスマン軍のムスタファ・ケマルらは、アンカラで新たに分裂政府を立ち上げ、セーヴル条約の承認を拒否してトルコ革命を引き起こした。そして、同年9月には新生トルコ軍が東部戦線でアルメニア軍と交戦状態に入った(トルコ・アルメニア戦争)。寄せ集めのアルメニア軍はカルスからも壊走し、トルコ軍は瞬く間にアレクサンドロポリまで迫った。 アルメニアはなすすべなく降伏し、11月30日にアレクサンドロポリ条約によってトルコと停戦したが、この条約ではセーヴル条約の破棄やアルメニアへのトルコ軍の自由通行などが求められており、アルメニアがトルコの属国と化すのは避けられない状況となった。さらにこの前日には、ロシアからの赤軍も、すでに共産化されていたアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国を経由して、東部国境から侵攻を開始していた。トルコ軍とボリシェヴィキの双方から最後通牒を発され、アルメニアは「少ない方の災厄を選べば生き残る余地が残され、ソビエト・ロシア代表との合意に達した」(首相、シモン・ヴラツィアン(ロシア語版)の回想)。
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