近代四水師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:12 UTC 版)
列強の侵略から国を守るための海軍を外国人(それも列強の軍人)に委ねるのはおかしいのではないか、というオズボーン水師への批判から、各地の督撫が海軍の建設を開始した。1870年代までに四つの水師が設立されたが、各水師は清朝皇帝に服属し海軍衙門(海軍省に相当する)の指揮は受けるものの、各督撫が資金供出の対価として、自らの水師に強い権限を有した(陸軍同様、軍閥的な要素があった)。このため艦艇が水師の枠を超えて統合運用される機会は稀だったが、それでも1880年代には鉄製砲艦・巡洋艦の国産に成功した。各水師は、福州船政局など傘下の造船所で建造された艦艇を主体に構成されていたが、例外的に李鴻章が設立に関わった北洋水師は成長著しい日本海軍への対抗上(傘下の造船所の能力が低かったため、というのもあるが)ドイツ・イギリスという当時の二大海軍先進国から購入した、装甲艦を含む艦艇が主力となった。 1880年代半ばには、この四水師の総体としての清国海軍は艦艇80隻余、計8万トン強という当時の世界全体でも特筆すべき戦力を有するに至った。しかし、水師は清朝中央と地方有力者の政治が絡む存在でもあり、対外戦争では消耗を避ける運用が優先されることになった。結果として海軍は地の利・数の利を活かせず清仏戦争(1884)、日清戦争(1894)で連敗。前者では福建水師、後者では北洋水師が全滅に近い損害を被ったことで、四水師体制は崩壊していった。 具体的な歴史は各水師の項を参照されたい。 福建水師 (1866 - ):拠点は福州。福建沿岸(開港地福州、廈門を含む)と台湾の警備を担当 広東水師 (1867 - ):拠点は広州。海賊と外国船の多い広東沿岸(開港地広州と英領香港を含む)の警備を担当 南洋水師 (1867 - ):拠点は上海。江蘇沿岸(開港地寧波、上海を含む)と長江の警備を担当 北洋水師 (1871 - ):拠点は天津(後に旅順、威海衛も)。天津の警備(つまり首都北京の防衛)を担当したが、徐々に黄海沿岸の防衛に任務が広がった
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