近代劇場として開設
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歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流れを受けて開設された。この運動の提唱者の一人でジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、1889年(明治22年)、東京市京橋区木挽町に開設された(第1期)。 それまで最も大きな劇場は新富座で、舞台の間口が8間あったが、歌舞伎座は13間と大きく広がった。また照明には当時最新技術だった電灯を採用するなど、それまでの劇場をはるかにしのぐ近代劇場となり、これを危惧した新富座・中村座・市村座・千歳座が「四座同盟」を結成して開場当初の歌舞伎の興行に掣肘を加えたことがあった。 福地はまもなく借金問題が浮上したことにより経営から離れ、歌舞伎座の座付作者として活歴物や新舞踊劇の脚本を多数執筆した。そしてそれらを演じた九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立つ歌舞伎座は、いわゆる「團菊左」の明治の歌舞伎黄金時代をもたらして文字通り歌舞伎の殿堂となった。1896年(明治29年)に歌舞伎座株式会社として株式組織化、皆川四郎が社長、井上竹次郎が副社長に就任した。大河内輝剛が社長を務めていた1907年(明治40年)春に、内外を修繕改築している。 1911年(明治44年)3月には、開場した帝国劇場に対抗するため劇場の純和風化改修工事を行い、同年11月に再開した(第2期)。この間に経営陣が分裂し、関西から東京進出を狙っていた松竹による株の買収が行われた。役員の田村成義がいったん株を買い戻したものの、1913年(大正2年)に病気のためやむなく手を引き、松竹の大谷竹次郎が経営を握った。一方の田村は二長町の市村座の経営に専念、これが後に「二長町時代」と呼ばれる大正の歌舞伎全盛時代に繋がった。 1921年(大正10年)10月、歌舞伎座は漏電により焼失した。大谷は田村成義の後継者・田村寿二郎の好意により市村座を借りて興行を継続しつつ、直ちに歌舞伎座の再建工事を行うことにした。1923年(大正12年)9月には建物躯体が完成したところで関東大震災に遭い、積み上げてあった内装用の桧材が全焼、工事は中断した。その後工事を再開し、1924年(大正13年)12月に竣工した。 「歌舞伎座」福地源一郎(1841 - 1906 号は桜痴)が演劇改良の場として、明治22年(1889)11月21日に開場させた劇場。興行師の千葉勝五郎(1834 - 1903)が出資したが、29年(1896)に売却され株式組織となった。市川団十郎(九世、1838 - 1903)、尾上菊五郎(五世、1844 - 1903)らが常に出演し、歌舞伎のひのき舞台として格式を守り続けた。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸」が描かれていて、「明治22年11月23日 歌舞伎座」と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「歌舞伎座」より抜粋 歌舞伎座の櫓 歌舞伎座内観(第1期)
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