近代劇場として開設とは? わかりやすく解説

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近代劇場として開設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:21 UTC 版)

歌舞伎座」の記事における「近代劇場として開設」の解説

歌舞伎座は、明治演劇改良運動流れ受けて開設された。この運動の提唱者一人ジャーナリスト福地源一郎福地桜痴と金業者千葉勝五郎共同経営で、1889年明治22年)、東京市京橋区木挽町開設された(第1期)それまで最も大きな劇場新富座で、舞台間口が8間あったが、歌舞伎座13間と大きく広がった。また照明には当時最新技術だった電灯採用するなど、それまで劇場はるかにしのぐ近代劇場となり、これを危惧した新富座中村座市村座千歳座が「四座同盟」を結成して開場当初歌舞伎興行掣肘加えたことがあった。 福地はまもなく借金問題浮上したことにより経営から離れ歌舞伎座座付作者として活歴物新舞踊劇脚本多数執筆した。そしてそれらを演じた九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎初代市川左團次らの名優舞台に立つ歌舞伎座は、いわゆる團菊左」の明治歌舞伎黄金時代もたらして文字通り歌舞伎殿堂となった1896年明治29年)に歌舞伎座株式会社として株式組織化皆川四郎社長井上竹次郎副社長就任した大河内輝剛社長務めていた1907年明治40年春に内外修繕改築している。 1911年明治44年3月には、開場した帝国劇場対抗するため劇場の純和風改修工事行い同年11月再開した第2期)。この間経営陣分裂し関西から東京進出狙っていた松竹による買収が行われた。役員田村成義がいったん買い戻したものの、1913年大正2年)に病気のためやむなく手を引き松竹大谷竹次郎経営握った一方田村二長町市村座経営専念、これが後に「二長町時代」と呼ばれる大正歌舞伎全盛時代繋がった1921年大正10年10月歌舞伎座漏電により焼失した大谷田村成義後継者田村寿二郎好意により市村座借りて興行継続しつつ、直ち歌舞伎座再建工事を行うことにした。1923年大正12年9月には建物躯体完成したところで関東大震災遭い積み上げてあった内装用の材が全焼工事中断したその後工事再開し1924年大正13年12月竣工した。 「歌舞伎座福地源一郎(1841 - 1906 号は痴)が演劇改良の場として、明治22年(1889)11月21日開場させた劇場興行師千葉勝五郎1834 - 1903)が出資したが、29年(1896)に売却され株式組織となった市川団十郎九世、1838 - 1903)、尾上菊五郎(五世、1844 - 1903)らが常に出演し歌舞伎ひのき舞台として格式守り続けた歌舞伎座の座紋「鳳凰丸」が描かれていて、「明治22年11月23日 歌舞伎座」と記され紙片書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首明治40年8月歌舞伎座」より抜粋 歌舞伎座 歌舞伎座内観第1期)

※この「近代劇場として開設」の解説は、「歌舞伎座」の解説の一部です。
「近代劇場として開設」を含む「歌舞伎座」の記事については、「歌舞伎座」の概要を参照ください。

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