近代劇協会時代
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1910年、長女の袖子を出産し、母に預ける。同年、演劇研究所試演会にて、イプセンの「ヘッダ・ガプラー」の翻案「鏑木秀子」で主役を演じる。浦路という芸名は、赤ん坊のころに引き離された草人の生みの母の名、角川浦路から取った。 草人はメーキャップ研究や化粧品開発に熱心で、浦路の両親の資金援助を得て、新橋に舞台用の化粧品を販売する「かかしや」を開店。草人考案の眉墨が人気を集め、繁昌した。浦路は女優業の傍ら、女店主として立ち働いた。 1912年、蕗子を出産、母に預ける(のちに養女に出す)。翌年、草人から衣川孔雀と愛人関係になったことを打ち明けられ、三人の共同生活が始まる。次男、観樹出産、母親に預ける(夭折)。夫が設立した近代劇協会の芝居に衣川らとともに出演、森鷗外が訳したファウストやマクベス、人形の家などで大役を演じた。衣川が妊娠したことで草人との関係が周囲にばれてスキャンダルになり、劇団脱退者が続出、公演は不発に終わり、資金繰りに窮する。 資金集めとスキャンダルの鎮静化を待って、近代劇協会は地方巡業に旅立ち、韓国・満州・台湾にも足を伸ばす。1916年に女児(ぎん子?)を生むが、人に預ける。このころから衣川孔雀が人気女優として忙しくなる一方、浦路はリューマチなどの病気のために舞台から一時遠ざかる。 草人は女性に対する執着が非常に強く、衣川が人気になるにつれ、彼女を繋ぎとめるために刃物沙汰や、愛を誓う血判書を毎月書かせたりなど異常な行動をとる。夫の愛を奪われた形となった浦路だが、変わらず夫と店を支え、衣川とも共演し、周囲からは何か割り切っているように見えたらしい。結局、衣川には歯科医の恋人ができ、草人と別れて結婚。草人は衣川に振られた苦しみから、自伝『蛇酒』『煉獄』を執筆、浦路も口述筆記するなど手伝っている。1918年、竹三郎を出産、左官業の夫婦に預ける。このころ近代劇協会には、伊沢蘭奢や浦路の妹の上山珊瑚も参加して好評を集めたが、新劇ブームは1913年をピークに下火になるばかりで、劇団経営は火の車だった。
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