近代化とマムルークの粛清とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 近代化とマムルークの粛清の意味・解説 

近代化とマムルークの粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)

ムハンマド・アリー」の記事における「近代化とマムルークの粛清」の解説

1811年オスマン帝国ムハンマド・アリー対しマッカ支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域支配下に置きシリアイラクにも勢力拡大しつつあった第一次サウード王国攻撃するよう要請したムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルーク反乱煽り自身総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し後顧の憂いを断つべく苛烈手法用いてマムルーク粛清することを決意した3月11日次男アフマド・トゥーソンのアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害するシタデル惨劇アラビア語版))と、カイロ市内のマムルーク邸宅さらには上エジプト拠点にも攻撃仕掛け1812年までにエジプト全土からマムルーク政治的軍事的影響力を排除することに成功した山口直彦は、マムルーク粛清成功したことによりムハンマド・アリーエジプトにおける支配権確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝成立したとしている。以後ムハンマド・アリー近代化政策推し進め国力増強図っていくことになる。後年ムハンマド・アリーマムルーク粛清について問われると、次のように答えたという。 私は、あの時期を好まないあのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦い悲惨策略流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初め開始された。 — (牟田1992, p. 259)

※この「近代化とマムルークの粛清」の解説は、「ムハンマド・アリー」の解説の一部です。
「近代化とマムルークの粛清」を含む「ムハンマド・アリー」の記事については、「ムハンマド・アリー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「近代化とマムルークの粛清」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「近代化とマムルークの粛清」の関連用語

近代化とマムルークの粛清のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



近代化とマムルークの粛清のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのムハンマド・アリー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS