近代化と新産業とは? わかりやすく解説

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近代化と新産業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:03 UTC 版)

芸予諸島」の記事における「近代化と新産業」の解説

こうした繁栄は、明治時代以降機帆船登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道登場により物流変わったため、港の存在意義なくなり衰えていった。その様子は「まるでから引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われた。 ただ、機帆船にとっても来島海峡航行困難な海峡であった航行速度の遅い船はそこを避けるように北側大きく迂回する航路大三島大崎上島間-三原沖-向島因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるうになる。そして航行困難な来島海峡と、航行比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブル多発したためその周辺近代的な造船所出来ていくのである丘陵地でかつ温暖な気候なのを活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカン栽培始まり、現在では日本有数産地となった近代のみ栄えた農業一つに、除虫菊シロバナムシヨケギク栽培挙げられる外来種除虫菊日本導入されたのが、明治初期上山英一郎によって導入された。大正時代になって普及進み第一次世界大戦によって輸入殺虫剤途絶えると、除虫菊需要高まった。ただ第二次世界大戦後になるとピレトリンが全化学合成され普及したため、作付激減した近代芸予諸島では大勢移民輩出した平野部がほぼ塩田耕地少なくその面積に対して農業人口多かったこと、また江戸時代から出稼ぎ多かったことも一因として挙げられる例えば、内海福山市)の田島横島漁民江戸時代から西海捕鯨従事し近代以降漁業移民としてマニラ湾進出したという。そして明治29年1896年船舶職員法改正により、それまで廻船船頭近代船の船長として認められなくなったことから、専門知識を学ぶ商船学校設立されることになり、これが現在弓削商船高等専門学校広島商船高等専門学校などとして存続している。 一方で女性仕事としてはおちょろ舟があった。これは港に停泊するに対して、陸側から小舟売春に行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく、家事などの身の回り世話もしていた。近世において、沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島御手洗や、近代石炭輸送中継基地として栄えた大崎上島木江が有名で、井伏鱒二『人と人影』など近代小説紀行文にも登場する1957年昭和32年売春防止法施行以降廃止されているが、遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たち敬い大切に扱った痕跡残っている。

※この「近代化と新産業」の解説は、「芸予諸島」の解説の一部です。
「近代化と新産業」を含む「芸予諸島」の記事については、「芸予諸島」の概要を参照ください。

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