近代化と新産業
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こうした繁栄は、明治時代以降機帆船の登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道の登場により物流も変わったため、港の存在意義はなくなり衰えていった。その様子は「まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われた。 ただ、機帆船にとっても来島海峡は航行困難な海峡であった。航行速度の遅い船はそこを避けるように北側を大きく迂回する航路、大三島と大崎上島の間-三原沖-向島と因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるようになる。そして航行困難な来島海峡と、航行は比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブルが多発したためその周辺で近代的な造船所が出来ていくのである。 丘陵地でかつ温暖な気候なのを活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカンの栽培が始まり、現在では日本有数の産地となった。 近代のみ栄えた農業の一つに、除虫菊(シロバナムシヨケギク)栽培が挙げられる。外来種の除虫菊が日本に導入されたのが、明治初期上山英一郎によって導入された。大正時代になって普及が進み、第一次世界大戦によって輸入殺虫剤が途絶えると、除虫菊の需要は高まった。ただ第二次世界大戦後になるとピレトリンが全化学合成され普及したため、作付は激減した。 近代、芸予諸島では大勢の移民を輩出した。平野部がほぼ塩田で耕地が少なくその面積に対して農業人口が多かったこと、また江戸時代から出稼ぎが多かったことも一因として挙げられる。例えば、内海(福山市)の田島・横島の漁民は江戸時代から西海捕鯨に従事し、近代以降は漁業移民としてマニラ湾へ進出したという。そして明治29年(1896年)船舶職員法改正により、それまでの廻船船頭は近代船の船長として認められなくなったことから、専門知識を学ぶ商船学校が設立されることになり、これが現在弓削商船高等専門学校や広島商船高等専門学校などとして存続している。 一方で、女性の仕事としてはおちょろ舟があった。これは港に停泊する船に対して、陸側から小舟で売春に行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく、家事などの身の回りの世話もしていた。近世において、沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島の御手洗や、近代に石炭輸送の中継基地として栄えた大崎上島の木江が有名で、井伏鱒二『人と人影』など近代小説・紀行文にも登場する。1957年(昭和32年)売春防止法の施行以降廃止されているが、遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たちを敬い大切に扱った痕跡が残っている。
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