近代化と軍政(1870年-1903年)
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三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らいだ。政治的にはコロラド党とブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦となり、また、1875年から1890年まで軍部が政党から独自に軍事政権を樹立した。1880年代からスペイン人、イタリア人をはじめとする多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展及び鉄道網の拡大と相俟って経済は繁栄した。ウルグアイ経済の基盤となった大農園(エスタンシア)の多くはイギリスなどヨーロッパに住む不在地主によって経営されていた。 19世紀後半には国家の世俗化が進み、1885年には結婚が世俗化され、カトリック教会から国家の管轄となった。 文化面においては、それまで存在した土着の人々や黒人の舞踊や音楽などが、キューバのアバネラや黒人のカンドンベ、イタリア系移民の音楽などの影響を受け、1880年頃にブエノスアイレスとモンテビデオでタンゴが成立した。教育においては1876年に普通教育法が制定され、初等教育が義務教育として定められた。
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