路面電車開通まで
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19世紀の終わり頃、ザグレブでは急速な都市化が進行し、1890年代の10年間で人口も50 %という急激な増加を示した。これを受け、ザグレブ市内の交通機関を整備する動きが1880年代に進み、予算不足などによる計画変更を経て1890年に当時のオーストリア=ハンガリー帝国主務省から馬車鉄道の建設許可が下りた。建設は翌1891年5月から始まり、当初はジュビリー経済林業博覧会(Jubilee Economic-Forestry Exhibition)の開催初日である8月15日に最初の路線が開通する予定だったが、車両の到着が遅れたことから実際の開業日は博覧会開催中の9月15日となった。 馬車鉄道は市民から高い評判を呼び、開業翌日だけでも当時のザグレブの人口(42,000人)の半数近くにも及ぶ約20,000人の乗客を運び、以降も盛況ぶりを見せた。だが、ザグレブの都市化がより進む中で馬車鉄道では旺盛な需要に対応できなくなり、より輸送力が高い交通機関・路面電車の建設が求められるようになった。当時、馬車鉄道はベルギーの企業連合が所有していたが、ザグレブ市は路面電車の導入にあたり10年単位で結ばれていた路線の所有権に関する契約を延長せず、1909年に新たに設立されたザグレブ電気軌道(以下、略称の「ZET」と記す)に権利を与えた。そして翌1910年8月18日、軌間1,000 mmの路面電車・ザグレブ市電が運行を開始した。開業当初に用意された車両はブダペストのガンツ製の電動車28両と、従来の馬車鉄道の客車を改造した付随車14両だった。その後、1911年までに馬車鉄道は全線とも路面電車に置き換えられた。 博物館に保存されている馬車鉄道の客車のレプリカ(2008年撮影) 電化初期は窓や壁が撤去されたオープンデッキの付随車も使用された 1930年代のザグレブ市電
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路面電車開通まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 06:40 UTC 版)
トゥーラ市内に線路を用いた公共交通機関を導入する計画は1872年、貴族のアレクセイ・ベイデンガムラー(Алексей Вейденгамлер)が提案した馬車鉄道建設プロジェクトから始まった。この計画は改訂が必要と見做され、それ以降の発展は見られなかったが、その後1887年に新規の馬車鉄道の建設プロジェクトが発表され、翌1888年に最初の路線が営業運転を開始した。それ以降、馬車鉄道は延伸を重ね1910年には総延長が7.5 kmに達したほか、同年からはベルギーの公的有限会社であるロシア都市・郊外軌道(Société Anonyme des Tramways Urbains et Suburbains en Russie)がトゥーラ市内の馬車鉄道の運営権を獲得した。 一方、これらの路線網について開通当初からより近代的な路面電車へ転換する計画が浮上し、1913年には主要な構想が纏まったのだが、技術的な問題に加えて第一次世界大戦の影響でベルギーとの関係が悪化した事から電化計画は頓挫し、馬車鉄道自体もロシア革命の影響で廃止する事態となった。その後、ソビエト連邦(ソ連)の都市となったトゥーラは急速に発展が進み、新たな公共交通機関として路線バスが導入されたものの、故障の頻発や輸送力不足などの課題が多く、輸送力を始め様々な面で有利な路面電車を再度導入する動きが高まった。そして1926年、路面電車を運営する協同信託である「トラムヴァイストロイ(Трамвайстрой)」が設立され、残存していた馬車鉄道のレールの撤去の後、1927年から本格的な建設が実施された。工事は急ピッチで行われ、10月9日、十月革命の記念日に行われた試運転を経て、11月7日からトゥーラ市内の路面電車・トゥーラ市電の営業運転が始まった。開通時の路線延長は8.9 kmで、車両はモスクワ市電やレニングラード市電からの譲渡車両7両で賄わえた。
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