貿易・金融の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
若松港の築港工事が行われ、特別輸出入港に指定されると、石炭輸出は徐々に門司港から若松港にシフトし、門司港はそれに代わってセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品の輸出やその原料の輸入を担うようになっていった。1914年(大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が神戸港や横浜港をしのいで全国1位となった。米、バナナ、肥料、材木、綿花、砂糖、麦粉、鉱油の西日本第一の取引地と称された。この頃には、門司の一等市街地の地価は東京日比谷公園の地価と大差ないとされ、土地の狭い門司港地区では建物がどんどん山手に上っていった。 1914年(大正3年)、門司駅(現門司港駅)が現在の駅舎に移転した。2代目門司駅は、ネオ・ルネサンス様式の木造2階建てである。第一次世界大戦開戦の年であり、人や物の移動が激しくなるのに対応して、関門連絡船桟橋と直結させたものと見られる。その当時、既に九州と本州を橋または海底トンネルで結ぶことが検討されており、鉄道院総裁後藤新平がそのための調査を命じていた。そこでは、主力駅が大里駅(現門司駅)となることが予想されていたため、2代目門司駅(現門司港駅)はレンガやコンクリートでなく木造とされたという。 大正期から昭和初年にかけて、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行や商社が集まり、道路にはガス灯がともり、「一丁倫敦」と呼ばれた。桟橋通りは、山側から門司港駅前、その先の埠頭まで通る道であり、これと交差する東西道路(国道3号)とともに街並みの軸となった。現門司港駅のほかにも、旧門司税関(1912年)、旧大阪商船(1917年)、日本郵船ビル(1927年)など、この時期に建てられた建物のいくつかが門司港レトロ地区に残っている。商社や銀行の支店長など、東京からの転勤族が洋風の「ハイカラ」な文化をもたらし、洋食品販売の明治屋、フルーツパーラー、カフェ、パン屋などが並んだ。門司港には料亭も多く、高級料亭だけでも「菊の屋」「金龍亭」「三笠」など十数軒あった。1931年(昭和6年)に清滝に移転した料亭「三宜楼」が現存している。明治時代に埋立地内に造られた遊廓(馬場遊郭)もあった。1911年(明治44年)、九州電気軌道(後の西日本鉄道)が門司と小倉・黒崎を結ぶ路面電車(北九州線)を開業し、東本町や大里に停留所が置かれた。汽車よりも気楽に乗れる路面電車は、市民の足として人気を博した。1923年(大正12年)には、東本町2丁目から田ノ浦までの門司築港線(門築電車)が建設された(後に九州電気軌道の傘下となる)。1913年(大正2年)以降、多数の映画館も開業した。 大正期には、先行した門司市と小倉市に続き、若松市、八幡市、戸畑市も市制施行し、北九州工業地帯を形成するようになった。中央資本による大工場が多いが、立地上、原料獲得に有利であることを背景に、素材中心の産業を発展させた。
※この「貿易・金融の繁栄」の解説は、「門司の歴史」の解説の一部です。
「貿易・金融の繁栄」を含む「門司の歴史」の記事については、「門司の歴史」の概要を参照ください。
- 貿易・金融の繁栄のページへのリンク