語義・語源
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ノリトのノリは「宣る」の名詞形で、呪的に重大な発言をすること。トは屎戸・詛戸・事戸などのトと同様に呪的な行為や物につける接尾語と解するのが、通説となりつつある。賀茂真淵は詔賜言(のりたべごと)、本居宣長は宣説言(のりときごと)をノリトの語源と説いたが、こんにちでは認められていない。本来はノリトの語形であったのがコト(言)を加えてノリトゴトとなったとする説と、逆にノリトゴトの語形だったのがノリトと略されたとする説とがある。平安時代後期以降は音便化してノットとも呼ばれるようになった。
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語義・語源
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当たり鉦と太鼓を組み合わせて一人で歩きながら演奏出来るようにした一種のドラムセットをチンドンまたはチンドン太鼓と呼び、チンドン太鼓を用いて路上で宣伝する職業を「チンドン屋」または単に「チンドン」と称する。 「チンドン」は、鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立したと考えられるが、十分な用例が確認されておらず語の成立過程は明らかではない。 「チンドン屋」という言葉は、1878年12月11日の『郵便報知新聞』見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在したが、用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではない。 現代(21世紀)のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年頃からある。当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線、管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される。 チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため、あるいは芝居の口上に由来するとされる。広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった。 関西では東西屋という表現が用いられることがある。東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった。 現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。この呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが、歴史的経緯については、次節を参照のこと。
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