裏切りと訴追
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「ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン」の記事における「裏切りと訴追」の解説
同じ頃、フリードリヒ大王とトートレーベンは書簡を交し始めた。1761年2月、このやり取りを主導したのはトートレーベン伯自身である。そして部下の士官の一人、シュレージエン出身のドイツ人であるアッシュ中佐の密告で、彼は1761年6月30日にノイマルク (Neumark) のベルンシュタイン (Pełczyce) で逮捕され、大逆罪に問われた。また、ロシア軍の進路を記した、暗号化された手紙を運ぶ密使も拘束された。捜査官に対し、トートレーベンはフリードリヒ大王の信用を得て自身と密会するよう説得し、王をその場で捉えるという計画を供述する。しかし、この話を信じた者は居なかった。 それでも、これは信じるに足る話と思われた。なぜならそれは非常に挑戦的な計画であり、冒険心溢れるトートレーベン伯の性格にとても相応しかったからである。プロイセンの公文書を調査したエーベルハルト・ケッセル(ドイツ語版)は、尋問におけるトートレーベンの発言について、プロイセン側と交わした書簡の頻度と内容(古くなった「わずかな」誤った情報も含む)を確認した。ケッセルはトートレーベンに金銭が支払われたり、彼からその要求があった痕跡を見つけられなかった。つまり、裏切りの動機は物欲ではない。 トートレーベンの事件の捜査は、この時期のロシア帝国における、二回の政権交代によって、並はずれて長引いた。ようやく1763年、彼は軍法会議にかけられ死刑の判決を受ける。しかしロシアの新しい支配者、エカチェリーナ2世は彼に恩赦を与え、死刑を追放に減刑した。1763年4月22日、皇帝の命令で、トートレーベン伯がロシアの国家に対する悪意を認め、軍法会議により名誉、財産の剥奪および死刑の宣告を受けた事実が公表される。しかしその悪意は国家に害を与えず、すでに二年間の拘留生活を送っていることから、皇帝は彼をロシア国内の滞在を許されない犯罪者として監視のもと国境へ送り、別れを告げずに放逐するよう決断した。またトートレーベンの地位と勲章は剥奪され、二度とロシアの地を踏まず、違反した場合は誰もが生命を奪って良いという保証書に署名することとされた。1763年5月24日、トートレーベンは軍人(メセンチェフ少佐、一名の准尉および六名の兵士)によってロシアの国境へ護送され、シュルツェンクルークの村で「別れを交わさないまま」取り残された。しかし1769年、わずか数年前に辛くも死刑を免れ、皇帝の命令で法の保護を奪われていたにも関わらず、トートレーベンはロシアに戻る。女帝エカチェリーナ2世は彼を赦免したのである。以前の階級に復帰すると、彼は一軍の先鋒として露土戦争 (Russo-Turkish War (1768–1774)) へ送られた。トートレーベンの事件における、異例の寛容な待遇(自宅監禁のみで拷問なし)と処罰(拘禁中の分まで含めた、給料の支給)は、著名な反逆者である彼への赦免と並び、現在に至るまで憶測を呼んでいる。これに関して興味深いことに、彼を密告したアッシュ中佐は投獄され、そのまま生涯を終えた。同中佐は十九年間、ダウガフクリーヴァ (Daugavgrīva) 要塞で過ごした後、修道院を改築した牢獄で精神病に罹った政治犯として死を迎えた。
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