裏切りと訴追とは? わかりやすく解説

裏切りと訴追

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 03:04 UTC 版)

ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン」の記事における「裏切りと訴追」の解説

同じ頃、フリードリヒ大王とトートレーベンは書簡を交し始めた1761年2月、このやり取り主導したのはトートレーベン伯自身である。そして部下士官一人シュレージエン出身ドイツ人であるアッシュ中佐密告で、彼は1761年6月30日にノイマルク (Neumark) のベルンシュタイン (Pełczyce) で逮捕され大逆罪問われた。また、ロシア軍進路記した暗号化された手紙を運ぶ密使拘束された。捜査官対し、トートレーベンはフリードリヒ大王信用得て自身密会するよう説得し、王をその場捉えるという計画供述する。しかし、この話を信じた者は居なかった。 それでも、これは信じるに足る話と思われた。なぜならそれは非常に挑戦的な計画であり、冒険心溢れるトートレーベン伯の性格にとても相応しかったからである。プロイセン公文書調査したエーベルハルト・ケッセル(ドイツ語版)は、尋問におけるトートレーベンの発言について、プロイセン側と交わした書簡頻度内容古くなった「わずかな誤った情報も含む)を確認したケッセルはトートレーベンに金銭支払われたり、彼からその要求があった痕跡を見つけられなかった。つまり、裏切り動機物欲ではない。 トートレーベンの事件の捜査は、この時期ロシア帝国における、二回の政権交代によって、並はずれて長引いた。ようやく1763年、彼は軍法会議かけられ死刑判決を受ける。しかしロシア新し支配者エカチェリーナ2世彼に恩赦与え死刑追放減刑した1763年4月22日皇帝命令で、トートレーベン伯がロシア国家対す悪意認め軍法会議により名誉、財産剥奪および死刑宣告受けた事実公表される。しかしその悪意国家に害を与えず、すでに二年間拘留生活を送っていることから、皇帝は彼をロシア国内滞在許されない犯罪者として監視のもと国境送り別れ告げず放逐するよう決断した。またトートレーベンの地位勲章剥奪され二度とロシアの地を踏まず違反した場合誰もが生命奪って良いという保証書署名することとされた。1763年5月24日、トートレーベンは軍人(メセンチェフ少佐一名准尉および六名兵士)によってロシアの国境護送され、シュルツェンクルークので「別れを交わさないまま」取り残された。しかし1769年、わずか数年前辛くも死刑免れ皇帝命令で法の保護奪われていたにも関わらず、トートレーベンはロシアに戻る。女帝エカチェリーナ2世は彼を赦免したのである以前階級復帰すると、彼は一軍先鋒として露土戦争 (Russo-Turkish War (1768–1774)) へ送られた。トートレーベンの事件における、異例寛容待遇自宅監禁のみで拷問なし)と処罰拘禁中の分まで含めた給料支給)は、著名な反逆者である彼への赦免並び現在に至るまで憶測呼んでいる。これに関して興味深いことに、彼を密告したアッシュ中佐投獄されそのまま生涯終えた。同中佐十九年間、ダウガフクリーヴァ (Daugavgrīva) 要塞過ごした後、修道院改築した牢獄精神病罹った政治犯として死を迎えた

※この「裏切りと訴追」の解説は、「ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン」の解説の一部です。
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