裏切りの証拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 16:26 UTC 版)
学者たちの中には、ハドソン・バレーにおける非公式スパイ監督者としてのハウの行動に関して疑問を投げかける者がおり、イギリス正規軍士官への任官と引き換えにハウが何らかの取引を行おうとしたことを示す証拠になっている。それはベネディクト・アーノルドが1780年に行ったことと類似していた。ハウが准将に指名された1776年には既に、ヘンリー・ケリーというロイヤリスト商人がイギリスの植民地担当大臣ジョージ・ジャーメインに、ハウは容易にイギリス側に与するよう誘惑できると助言しており、さらにイギリスの戦争遂行のために大きな取引を提供できるとも主張していた。 1780年、ベネディクト・アーノルドが裏切りをしようとして露見した後、イギリスの離反者で元イギリス軍士官ビーズリー・エドガー・ジョエル大尉が、アーノルド以外にも寝返ろうとしていると主張しており、尋問後にジョエルはその士官としてハウを挙げていた。ジョエルはその情報源としてウィリアム・トライアンの秘書エドマンド・ファニングの名前を挙げていた。さらにハウのイギリス軍との対話手段として、たびたび捕虜となり、捕虜交換を繰り返した者が両者の間で伝言を運んだとも述べていた。ワシントンも大陸会議の戦争委員会も、ジョエルがイギリスのスパイだと疑っていたので、その話を信じなかったが、ジョエルは後にトーマス・ジェファーソンとバージニア政府から国内のロイヤリスト勢力に対して愛国者民兵隊を率いるよう任官されていた。さらにニューヨークのロイヤリストで、ハウの代理人かつアーノルドの共謀者であるジョシュア・ヘット・スミスの兄弟、ウィリアム・スミスがその日記の1780年4月29日に、兄弟のトマス・スミスがジョエルの語ったのと同じ方法で愛国者からの「情報」を持って代理人がイギリス側に来たということを知らされたと記していた。1780年9月28日、ウィリアム・スミスはヘンリー・クリントンに、「ボブ」・ハウが愛国者を売る用意があると考えると伝えていた。 後の歴史家、例えばダグラス・サウスオール・フリーマンは、ハウが裏切ろうとしたという仮定を度々否定し、ジョエルが愛国者政府に自身を結び付けようとした創作だと考えている。ハウの生涯を扱った唯一の著作では、1ページでこの反逆の噂を議論しただけだった。一方で、フリーマンの判断は主にこの噂に対するワシントンの評価に基づいているが、ワシントンはウィリアム・スミスの日記にあるかなり念入りな証拠を見ていなかった。他の可能性として、ハウはその統制下にあった膨大なスパイ・ネットワーク管理を隠すために、裏切りの可能性をイギリス軍の間に広げようとしただけだとも考えられる。この戦術はフィリップ・スカイラーなど他の大陸軍スパイ操作者も使っていた。ハウの経歴と動機を調べた歴史家フィリップ・ランレットは、スカイラーの輝かしい経歴とハウの失敗の記録を比較して、ハウが寝返ろうとしていたという結論を引き出した。ハウが無罪であるか、あるいは裏切ろうとしたことで有罪であるか、今日まではっきりとした証拠はない。
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