裁かるるジャンヌとは? わかりやすく解説

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裁かるるジャンヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 13:50 UTC 版)

裁かるるジャンヌ』または『裁かるゝジャンヌ』(: La Passion de Jeanne d'Arc、ジャンヌ・ダルクの受難)は、1928年に公開されたフランスサイレント映画である。監督はデンマークカール・Th・ドライヤーで、主演はルネ・ファルコネッティである。ジャンヌ・ダルク異端審問裁判の様子とその後の火刑までを扱った作品で、実際の裁判記録をもとに脚本が書かれ、ジャンヌを英雄視せず、あくまで尋問調書から読み取ることができる一人の人間として描いている。物語の中心となる法廷での審問官とジャンヌの問答の場面は、極端な顔のクローズアップと会話字幕の多用でつないでいる。


注釈

  1. ^ ジョゼフ・デルテイユはフランスの作家でシュルレアリストの最古参の一人だった。この小説『ジャンヌ・ダルク』(1925年)はフランスの文学賞であるフェミナ賞を受賞している。当時、ヨーロッパではジャンヌ・ダルクに注目が集まっていた。1908年アナトール・フランスの評伝が出版され、1923年バーナード・ショウ戯曲『セント・ジョウン』が発表。そして、デルテイユの『ジャンヌ・ダルク』。1920年には教皇により列聖されている。小説『ジャンヌ・ダルク』は、アンドレ・ブルトンにより酷評され、デルテイユはシュルレアリスム運動からは距離を置くようになる。その後もデルテイユは「商業主義」作家であるとしてブルトンらにより弾劾され続ける。1929年の『シュルレアリスム第二宣言』ではアントナン・アルトーらともども名指しで批難され、そこで展開される罵詈雑言は「血祭りの大殺戮」[2]であった。アルトーがシュルレアリストグループから除名されるのは1926年末で、翌1927年、つまり『裁かるるジャンヌ』製作時はブルトンとの激しい論争の最中であった。1929年にはメンバーの離脱、グループの分裂が進み、シュルレアリスム運動体は崩壊へと向かっていくことになる。
  2. ^ 『裁かるるジャンヌ』と同じソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルムの製作。
  3. ^ 往々にして映画黎明期の演劇関係者は映画に対して否定的な発言をしているが、アルトーは映画にとどまらず多くのものを攻撃した。それは、かつて自身も所属したシュルレアリスムや演劇、あらゆる宗教、そして神さえも捨て去り、その影響下から逃れようとした。「ラシーヌ以来の心理的演劇の害毒は、演劇が持たなければならない直接的で激烈な行動をすっかり馴染みのないものにしてしまった。そして、次には映画がその映像で我々を生殺しにした。機械というフィルターをかけられて感受性に達することもできないのに、十年来、我々を無為な麻痺状態に閉じ込め、我々のあらゆる能力もそのなかに沈んでしまうようだ。」(「残酷と演劇」アントナン・アルトー、1933年(『アントナン・アルトー著作集Ⅰ演劇とその分身』白水社、1996年))
  4. ^ 『ミカエル』の正式カメラマンはカール・フロイントであるが、制作途中に他の作品の撮影にまわされてしまったために、それ以後ルドルフ・マテが撮影を引き継いだ。『ミカエル』はエリッヒ・ポマーのプロデュースのもとドイツで制作された。カール・フロイントはドイツやアメリカで活躍した名カメラマンで、F・W・ムルナウフリッツ・ラング作品のカメラマンとして知られている
  5. ^ 『裁かるるジャンヌ』でロワズルール役を演じたモーリス・シュッツも『吸血鬼』に出演している。
  6. ^ この映画に対する妨害は制作前から存在した。ドライヤーがジャンヌ・ダルクを映画で扱うことに対して、フランス国内の右翼が反発していたのだ。その理由は、彼が外国人であり、デンマーク人、つまりプロテスタントだからであった。さらにアメリカ人女優のリリアン・ギッシュがジャンヌ役を演じるとの噂が流れるとそれはさらに強まった。ドライヤーに対抗する映画まで作られた。マルコ・ドゥ・ガスティーヌ監督の『ジャンヌ・ダルクの驚くべき生涯』(1929年)という映画で、「戦闘場面に力点をおいた大スペクタクル作品」(ジョルジュ・サドゥール「カール・ドライヤーの展開」)といったような内容だった。
  7. ^ 例えばジャン・コクトーは次のように評した。「『戦艦ポチョムキン』はドキュメンタリー映画を模倣して私たちを驚かせた。『裁かるるジャンヌ』は映画がまだ存在しなかった時代のドキュメントを模倣している」(ジョルジュ・サドゥール「カール・ドライヤーの展開」)
  8. ^ このランキングからサイレント作品が激減する1962年度以降に10位以内にランクされたサイレント作品は、『グリード』(1924年)、『戦艦ポチョムキン』(1925年)、『将軍(キートンの大列車追跡)』(1926年)、『サンライズ』(1927年)そして『裁かるるジャンヌ』の5本である。

出典

  1. ^ a b c 「カール・Th・ドライヤーに聞く」ミシェル・ドラエ(『作家主義』奥村昭夫訳、リブロポート、1985年)
  2. ^ 「『シュルレアリスム運動体』系の成立と理論」田淵晋也、勁草書房、1994年)
  3. ^ a b c 「カール・ドライヤーの展開」ジョルジュ・サドゥール(『世界映画史 12』図書刊行会、2000年)
  4. ^ a b 「アントナン・アルトー」ジャン=ルイ・ブロー/安堂信也訳(白水社、1976年)
  5. ^ ドナルド・リチー「裁かるるジャンヌ」『映画芸術の革命』二〇世紀芸術叢書3(昭森社、1958年
  6. ^ a b c 「歴史と真実 ー カール・Th・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』のために」小松弘(『シネティック第2号』洋々社、1995年)
  7. ^ 「カール・ドライヤー国際シンポジウム/ドライヤー研究の現在」小松弘『月刊イメージフォーラム』6巻3号、1985年3月
  8. ^ 「ジャンヌ・ダルク 新題名・懸賞募集」ヤマニ洋行宣伝部『キネマ旬報』第341号、1929年9月1日
  9. ^ 内田岐三雄「各社試写室より」『キネマ旬報』第343号、1929年9月21日
  10. ^ 飯島正「主要外国映画批評/裁かるるジャンヌ」『キネマ旬報』第350号、1929年12月1日
  11. ^ ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書ー映画監督のノート』松浦寿輝訳(筑摩書房、1987年)
  12. ^ 大島渚「映画『奇跡』の永遠性」(毎日新聞1979年2月8日
  13. ^ ジャン・ルノワール「ドライヤーの罪」1968年12月/『ジャン・ルノワール エッセイ集成』野崎歓訳(青土社、1999年)


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