様々な国での映画製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:47 UTC 版)
「カール・テオドア・ドライヤー」の記事における「様々な国での映画製作」の解説
3作目の『サタンの書の数頁』(1920年)以降、ドライヤーは不況と映画界の凋落を招いていたデンマークを離れ、ヨーロッパの様々な国を渡り歩いた。これにより、これ以後に製作した『不運な人々』(1922年)はドイツ、『むかしむかし』(1922年)はスウェーデン、『グロムダールの花嫁』(1926年)はノルウェーと作品ごとに製作会社が変わるという事態に見舞われた。当時の世界の映画界はハリウッドのスタジオ・システムに見られるように特定のスタジオと独占契約を結び、同じようにそのスタジオと契約しているスタッフや俳優と一つのグループを形成しながらそのスタジオの希望に添うような作品を作り続けることが常識であった。ドライヤーはそのような常識から逸脱した状況での映画製作を余儀なくされた。 このような状況の中、1924年にドイツで製作した画家を主人公にした『ミカエル』で耽美性を極め、翌1925年にデンマークに帰国して製作したある一家を描いた室内劇『あるじ』で興行的な成功を収めた。これによってフランスのソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルム社から歴史劇の製作を依頼され、マリー・アントワネット、カトリーヌ・ド・メディシス、ジャンヌ・ダルクの3つの企画案からジャンヌ・ダルクの異端審問と火刑までを実際の裁判記録に沿って描く伝記映画に着手。1928年に『裁かるるジャンヌ』を発表した。1932年には自身初のトーキーとなった『吸血鬼』をフランスとドイツで製作。しかし、これらの作品は現在ではドライヤーの代表作として知られるが、当時は興行的には失敗に終わった。『裁かるるジャンヌ』はオリジナルネガが火事で消失し、その後に未使用のネガを再編集して製作した第2版も火事で消失するなど不運に見舞われた(ノルウェーの病院でオリジナルフィルムが発見されたのは1981年の事である)。また、『吸血鬼』では配給会社がナレーションを加えた上に全体を短縮し、ドライヤーを失望させた。 その後は『怒りの日』(1943年)、『奇跡』(1955年)、『ゲアトルーズ』(1964年)とほぼ10年に1作品のペースでの製作を余儀なくされた。しかし、『奇跡』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とゴールデングローブ賞外国映画賞を受賞。『ゲアトルーズ』もヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞するなど、いずれの作品も国際的に高く評価された。
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