蒲田調の完成
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同年4月29日、ヘンリー・小谷監督・脚本・撮影の『虞美人草』が公開された。この作品は、新子安の海岸に中国風の大城砦のセットを作り、多くの人数を動員して項羽と劉邦の合戦場面が撮影された。主演の栗島すみ子のデビュー作でもあり、この映画のヒットと共に栗島も蒲田を代表するスター女優となった。 『虞美人草』公開後、撮影所長の田口桜村が本社の貿易部に引き上げられ、代わって野村芳亭が監督と兼任で撮影所長に就任した。新派出身の野村は、新派的題材の作品を製作路線とし、これらの作品は大衆に大受けした。この路線変更によってヘンリー・小谷、田中欽之、小山内薫らは松竹を去っている。また、スター第一主義の製作体制を行うためスター・システムを導入し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子、柳さく子など多くのスター女優が誕生した。 野村は賀古残夢とともに多くの新派的悲劇映画を作っていくが、伊藤大輔脚本で撮った『清水次郎長』(1922年)と『女と海賊』(1923年)では、「新時代劇映画」と銘打って、旧劇映画に現代劇俳優を出演させるなど、従来の歌舞伎調の旧劇映画とは異なる写実的な時代劇映画を作った。また、池田義信は、後の妻となる栗島を主演に多くの情話ものを撮り、その中でも1923年(大正12年)1月8日公開の小唄映画『船頭小唄』(共演:岩田祐吉)は大ヒットを記録した。牛原虚彦は、妻の三村千代子を主演に感傷悲劇を多く撮り、「センチメンタル牛原」と呼称された。一方、島津保次郎は、ハウプトマンの『線路番テール』を翻案した『山の線路番』 等の作品で、写実派の監督として評価された。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災によって撮影所は壊滅。東京での製作が困難になったため、京都市の松竹下加茂撮影所を建設してここに拠点を移した。野村をはじめ多くのスタッフ・俳優が京都へ移ったが、島津保次郎ら少数のスタッフが蒲田に残った。そこへ代理所長として赴任したのが城戸四郎だった。機能が京都へ移転した中、城戸は島津らと『蕎麦屋の娘』『お父さん』の製作に協力した。翌1924年(大正13年)1月に蒲田での映画製作が本格的に再スタートするが、7月に野村が下加茂撮影所の所長に異動(2年後蒲田に復帰)し、柳さく子、清水宏、大久保忠素、河村黎吉、志賀靖郎らが野村と行動を共にした。それにより、城戸が蒲田撮影所の所長に就任した。 城戸は、従来の新派的な路線や、スター優先の製作体制を排し、明朗で健康的な近代的感覚の映画作りを目指した。監督主導の体制を採用し、母性愛を主とした女性映画の製作を推進させ、青春映画や喜劇映画を路線に加えて、庶民の日常生活から題材を求めた小市民映画をスタイルとして確立した。これらは蒲田調と呼ばれ、後に大船に撮影所が移転してからもスタイルは引き継がれた。また、城戸はシナリオの重要性に着目し、脚本部を強化した。 島津保次郎は、サラリーマン喜劇の『日曜日』で蒲田調の先陣を切り、写実派として『嵐の中の処女』(1932年)、『隣の八重ちゃん』(1934年)などを発表。牛原虚彦は、鈴木傳明とコンビを組んで明朗快活な青春映画を製作して人気を得た。五所平之助は『からくり娘』(1926年)や田中絹代の主演で『伊豆の踊子』(1933年)、『人生のお荷物』(1935年)等を発表。清水宏は『若旦那』シリーズなどの娯楽映画を撮り、ロケーションを多用した実写的作品で後に評価された。小津安二郎は『東京の合唱』(1931年)、『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)などの喜劇作品を撮り、蒲田を代表する監督となった。また、ナンセンス喜劇と呼ばれるスラップスティック・コメディ映画を意識した短編喜劇映画も作られ、斎藤寅次郎らがその分野で活躍した。 やがて、土橋武夫・晴夫兄弟が撮影所内でトーキーの研究に取り組み、1931年(昭和6年)8月1日、五所平之助監督の『マダムと女房』を「国産初の本格的トーキー」と銘打って、帝国劇場で公開した。
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