萬歳から万才へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 13:58 UTC 版)
「萬歳#歴史」も参照 平安時代以来祭礼における派遣(予祝芸能)や家々を回る門付の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり、18世紀末(天明期)には生國魂神社や八坂神社に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、大阪俄の前座における軽口(かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった。 この萬歳小屋は、その軽口や、落語の台頭のために廃れたが、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは尾張萬歳や三河萬歳の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、胡弓・鼓・三味線という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、小咄の掛け合い、言葉遊び、数え歌などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。ひとつの流れを持った会話劇というよりは、現代における大喜利に似たものであった。この三曲萬歳はほとんど必ず「アイナラエ」という合いの手を入れる『奥田節』の演奏・歌唱で締めくくられるため、この時期の形式自体を「アイナラエ」と呼称する場合がある。また、御殿萬歳などが片膝立てで行われたのに対し、三曲萬歳は立った状態で演じられたので「立ち萬歳」とも呼ばれた。この形式で人気を取った人物に初代および2代目の嵐伊六がいる。 なお明治初期に成立した、浪曲師と曲師の2人1組による演芸形式である浪曲も、萬歳や軽口と相互に影響し合った。このように「2人組以上を基本とした滑稽な音曲としゃべくり」による演芸形式が上方で定着していく。 明治末期、河内音頭・江州音頭などの音頭取り芸人であった玉子屋円辰が、これまでの興行萬歳よりも音楽性の強い、歌舞音曲の合間に滑稽なしゃべくりを挟む、という形式で人気をとり、萬歳との差別化を強調するため看板などに「万才(まんざい)」の表記を用いた。円辰の人気を受け、音頭取りや俄の芸人が多く万才に転じたほか、「女道楽」などの音曲師がこれまでの芸を変えずに「万才」を標榜したことで、万才の持つスタイルに多様性が生まれた。この時期の形式を昭和中期まで伝えたコンビに砂川捨丸・中村春代がいる。なお、この時期を含め、長らく上方の寄席演芸は落語が中心であり、万才師の多くは端席と呼ばれる廉価な寄席にしか出演機会がなく、またそのような寄席でも、音頭、浪曲、義太夫などの主要プログラムに対し、添え物的な立場に置かれていた。 東京では、上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが1917年(大正6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの荒川清丸・玉奴)がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという。
※この「萬歳から万才へ」の解説は、「漫才」の解説の一部です。
「萬歳から万才へ」を含む「漫才」の記事については、「漫才」の概要を参照ください。
- 萬歳から万才へのページへのリンク