自然科学と例外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 01:33 UTC 版)
生物学の分野では例外は多い。メンデルの法則は身近な動植物ですらむしろきれいに当てはまるものを探すのが難しく、生物全体を見れば、直接当てはめることすらできない例も多い。そもそもメンデル自身、自説を発表する際、予備実験として多くの形質について実験を行っており、その中から法則性を示せる形質のみを取り上げているが、その際に取り上げた形質の数より捨てた形質の数の方が多い。しかしメンデルの法則は生物学の分野ではむしろよく整えられた法則である。 生物学の歴史を見れば、非常に多くの法則が提唱されては消えている。それらの多くは確かに当てはまる例はいくつもあるにせよ、当てはまらないものの方が多いんじゃないか、というものもある。そのため、その多くは「○○の場合、××となることが多い」といった言い方で示されている。中には「生物に関してあるアイデアを思いついた場合、それの裏付けとなる生物は必ず存在する」という声ある。たとえば1921年にペトロニヴィクスは「種・系統樹および群の進化の法則」と題して24の法則を総括している(井尻正二『化石』岩波新書,1968)が、この中には1:放散の法則(→適応放散)、7:収斂の法則(→収斂進化)のように、現在でも認められるもののそれを法則とは呼ばないようなものばかりである。 現代物理学においては、物事を数的に(量で)表現し、数学を用いて把握しようとする。だが、数学は形式科学なので、自然科学とは異なり、数学だけでは自然については何も言うことができない。どのような関係にあるのか、というのは、実際に確かめて(=実験)してから判断し、実際に確かめる前に推察でうかつなことを言ってしまうのは避ける、とするのが自然科学である。また、ある時、ある数式を思いつきおおむねその数式に沿って自然が動いているようだ、と考えられるようになっても、だからといっていつでも数式通りに自然が動くだろう、などと期待したり、絶対に数式どおりに自然は動くはずだ、と決めつけるのは自然科学的には不適切である。いつも疑う態度を保ち、実際に確かめ続けるのが自然科学的態度である。 なお、「振り子の等時性」は古くから言われているが、実は「振り子は、いつも等時的に動いている」と見なしてよいのか、(ガリレオなどの物理学者が、物を基準に時間を計る、と恣意的に決めて)「ある(同一の)振り子が1回振れる間を、同じ時間と見なす」と方針を定めて理論体系を組み立てたのか、つきつめて科学哲学的に考察する場合、難しい問題をはらんでいる。例えば冬至の日の出から日の出の間に揺れる振り子の回数を観測してみた場合に、それがある年に増えた場合に、「1日の長さが伸びたのか?」(「地球の回転の速度が遅くなったのか?」)と考えるのか、「昨年と比べて振り子の1回の揺れにかかる時間が短くなったのか?」というのは、この観測だけでは解決できない。ほかの様々な観察をいくつも行い、総合的に判断せざるを得ない。ひとつの振り子だけを用いている場合でも複雑であるが、複数の振り子、あるいは周期的な運動を「時計」として用いている時に、それぞれが「ズレ」た場合、それが何を意味しているのか解釈する場合も、実は複雑になる。 あらかじめ想定している法則にあてはまらない事例が見つかった場合、どう判断するのか、という難しいテーマがある。 「観測のミス」「実験のミス」と見なし、観測や実験のやり直しを行うか つまらないこと、と感じて、無視したり、記憶から消してしまうのか 別の法則を新たに付け足してでも、強引に理論体系を守ろうとするのか(アドホックな仮説) (「これを認めたら、結局、法則は無い、ということになってしまう」「都合が悪い」などと感じて)データを意図的に無視して隠ぺいしたり、改ざんして、インチキ論文を書いてしまうか(科学における不正行為) 法則が成り立たない範囲、「例外」「特異点」を発見したのか検討し、そうだった場合に、それの活用を探るのか(セレンディピティ) 同じ事象を眼の前にして、どのような判断・行動をするのか、ということで結果が大きく異なってくる。
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