脱走の決行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:08 UTC 版)
1944年8月5日午前2時過ぎ程からの深夜帯に豊島の突撃ラッパを合図に、将校と入院者含め不参加者118人(一説では138人)を除く900名の日本兵は集団脱走を決行する。脱走時、携帯する事の出来た武器と言ったものは身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バットといったものに過ぎず、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗できる状態では無かった。また、各自自決用の剃刀を持った。 決行前、作戦命令に従い、足の悪い者は次々と首をつって自殺した。また、第10班の安倍班長のように、豪州兵との戦闘を拒んで自殺する者もいた。決行直前5分前、一人の捕虜がハットを飛び出し、何かを訴えながら門を乗り越えて来た。異常事態を悟った警備兵のアルフレッド・ロールズ一等兵は空に2発威嚇射撃を行った。それを見た豊島は「裏切者を殺せ!」と叫び、決行を繰り上げて合図の突撃ラッパを吹いた。 オーストラリアの歴史家Gavin Longによれば「午前2時頃、一人の日本人(豊島)がキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹いた。これに対して警備兵は警告射撃を行った。続いて『バンザイ』を叫びながら、毛布をかぶり網を通り抜けようとした3人の日本人(それぞれが北・西・南側で行動)に発砲した。日本人捕虜は、ナイフ、フォーク、釘やフックを打ち込んだ野球バットなどで武装していた」。 ほとんどの警備兵は就寝していたが、発砲の後に非常召集されて配置に付いた。日本人捕虜はBブロックの建物に放火。約200名が収容所北西部から、約200名が北部から、約300名が東部からそれぞれ脱走を試みた。 当時の警備兵は、「日本人は何を考えているのか分からなかった。野球、相撲などのレクリエーションの自由もあったし、日本人は魚を食べるので、(オーストラリア人とは別に、特別に)魚を食事で支給されていた。脱走時の夜は田舎の満月で、とても明るく、人の影がよく見えた上に、わざわざ明るくなるように建物に放火をしたので、付近の様子が昼のように目視できた」と証言している。捕虜たちは西部銃座に押し寄せ、機銃掃射を行っていたベンジャミン・ハーディー一等兵を撲殺し心得のある陸兵が取りついたが、ハーディーが直前にボルトを抜いて投げ捨てていたため作動しなかった。 収容所敷地外へかろうじて脱出した者のうち、約70名は命令通り丘の上に集結したが、どこかに脱出できるあてもなく、夜明け後に帰順した。前田、金田弘(第13班副班長)ら残り33名は逃走を続け、豪州の農村を逃げ回った。中には民家の前に来て立っていた川口進ら3人の捕虜に、牧場主の妻が『もうすぐお菓子が焼けるから食べて行きなさい』と迎え入れ、紅茶とスコーンを振る舞う交流もあった。しかし多くの住民は捕虜を警戒して武装し、射殺するケースもあった。金田も武装した住民によって3日目に逮捕された。一方、豪州軍も陸軍訓練所生徒隊を追撃に向かわせたが、夕方に向かわせ日没前に戻らせるという無理な命令の上、歩兵訓練基地司令官ミッチェル大佐は、新兵ゆえの経験不足で同士討ちとなる可能性や、日本によるオーストラリア兵捕虜への報復を恐れ銃剣以外の武器の携行を許さなかった。結果、士官1名が捕虜に撲殺されている。彼ら捕虜の多くは再び捕虜にならぬよう自殺した。また、怨恨からか、豪州兵による射殺もあったという。前田のように1週間もさまよう日本兵もいたが、最終的に敷地外での自殺者・他殺者25名を除き、8日目までに全員捕縛された。 死者数は235名(オーストラリア人4名、日本人231名)と多数の死傷者を出した。負傷者数は日本人108名(うち3名が重傷のため死亡)、オーストラリア人4名。なお将校キャンプでは参加者がいなかったが、田島拓自軍医少尉(偽名は藤田一郎大尉)が流れ弾を両腿に受け1,2時間後に死亡、参加しようとした及川晃海軍少尉も脚に負傷した。
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