脱走後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 05:12 UTC 版)
「スタラグ・ルフト III」の記事における「脱走後」の解説
処刑された50名の国籍 21名 英国人 6名 カナダ人 6名 ポーランド人 5名 オーストラリア人 3名 南アフリカ人 2名 ニュージーランド人 2名 ノルウェー人 1名 ベルギー人 1名 チェコスロバキア人 1名 フランス人 1名 ギリシャ人 1名 リトアニア人 脱走の後でドイツ側は収容所の総点検を行い、作戦が如何に広範囲な規模で行われたかを悟った。4,000枚のベッド用床板が無くなり、同様に紛失した物の明細は90床の2段ベッド、635個のマットレス、192枚のベッドカバー、161枚の枕カバー、52卓の20名用テーブル、10卓の一人用テーブル、34脚の椅子、76脚のベンチ、1,212枚のベッド用補強材、1,370枚の当て木、1,219丁のナイフ、478個のスプーン、582個のフォーク、69個のランプ、246個の水筒、30個のシャベル、1,000フィート (300 m)分の電線、600フィート (180 m)分の縄、3,424枚のタオルであった。1,700枚の毛布が1,400個以上のクリム缶と共に使用されていた。ドイツ人作業員がいない間に放置されていた電線が盗まれていたが、盗難の報告はされていなかった。この作業員達はゲシュタポにより処刑された[要出典]。脱走事件以後1床のベッドにつき僅か9枚の底板しか支給されず、これも歩哨により定期的に点検された[要出典]。 76名の脱走者のうち73名が逮捕された。当初、ヒトラーは見せしめとして脱走者だけでなくフォン・リンダイナー所長、収容所を設計した建築家、脱走時に任務に就いていた収容所の保安将校と歩哨も銃殺に処することを望んでいた。ヘルマン・ゲーリング、カイテル元帥、ヴェストホフ(Westhoff)少将と戦争捕虜に対する責任を負う部門の長であるフォン・グラフェニッツ(von Graevenitz)少将の全員がジュネーブ条約違反となるような処刑に反対した。最終的にヒトラーは気持ちを収めて、代わりにヒムラーに脱走者の半数以上を処刑するように命令した。ヒムラーは人選をアルトゥール・ネーベ将軍に任せ、ネーベはまずポーランド人と東欧の脱走者全員を選んでから残りを無作為に選び出したらしい。50名の脱走者が単独か2名単位で処刑された。 残り23名の脱走者がその他の収容所に送られる前に捕虜のボブ・ネルソン(Bob Nelson)は、同姓のネルソン提督との縁戚関係を信じたらしいゲシュタポにより他の捕虜とは別にされ、友人のディック・チャーチル(Dick Churchill)もおそらく同様の理由により別にされた[要出典]。17名が「スタラグ・ルフトIII」に戻され、4名はザクセンハウゼン強制収容所に送られた。ザクセンハウゼンの4名は3カ月後に再びトンネルを掘って脱走したが、数週間で再逮捕され連れ戻された。2名はコルディッツのオフラグ IV-Cに送られた。
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