脱走者の銃殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 15:02 UTC 版)
同じ9月2日の12:00過ぎに、ベティン・クサ(Beting Kusah)の防空訓練所に近い海岸で、収容所から脱走しようとした濠軍ブリーヴィントン伍長ら英濠軍の軍人4人が銃殺された。 ホウムズ大佐と各区域の統率者は、4人の処刑に立ち会うよう命じられた。日本の大佐、通訳の岡崎中尉、その他何人かの将校も現場に立ち会っていた。捕虜4人のうち1人は病院から連行されたためパジャマ姿で現場に到着し、自分で立っていることができず他の2人に支えられていた。 ブリーヴィントン伍長が日本軍の将校に「脱走は自分の責任で他の者に罪はないから釈放してほしい」と言ったが返事はなかった。4人は目隠しをされないまま、インド人の将校4人によってまず手や腹を撃たれ、それから止めを刺された。軍法裁判は行われていなかった。処刑が終わった後、岡崎中尉が立ち会っていた連合軍の将校に向かって「いまの出来事をみて、部下に脱走しない旨の署名をするよう命じるべし」といった。
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