脱走の勇士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:21 UTC 版)
黒山の村人たちは、平九郎の壮絶な最期を讃えて「脱走の勇士様」(だっそさま)と呼び、首から上の病に効く神様と崇めた。命日には、墓前にしゃもじを供えて冥福を祈る風習があった。 飯能戦争で敗れた成一郎と惇忠は、吾野を経て上州の伊香保、草津、前橋へと転々としたのち、成一郎は榎本武揚率いる旧幕府軍とともに箱館戦争に参戦し、惇忠は下手計村に帰郷した。惇忠のもとに、飯能戦争で一人の脱走士が入間郡黒山村で勇戦し亡くなったという噂が届いた。7月、惇忠は入間郡黒山村(入間郡越生町大字黒山)に向かい、人々に話を聞いて回り、その勇士が平九郎であると悟った。 平九郎の最期の様子を描いた絵が残っている。明治元年(1869年)5月23日、官軍に召集された安戸村(秩父郡東秩父村安戸)の医者宮崎通泰は、治療に当たった3人の負傷兵から、小刀で彼らに応戦し、最期まで勇ましく戦った脱走兵の話を聴き、その最期を絵にしたためた。十数年後、榛沢郡中瀬村(現・深谷市)の斎藤喜平がこれを見聞きし、惇忠に伝えた。明治23年(1890年)7月、第一国立銀行仙台支店の支配人になっていた惇忠は、絵を所有していた丸橋一之のもとへ出向き、絵に「渋沢平九郎昌忠戦闘之図」と題し、添え書きを記した。
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