脱走と最期とは? わかりやすく解説

脱走と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:34 UTC 版)

山南敬助」の記事における「脱走と最期」の解説

元治2年1865年2月山南は「江戸へ行く」と置き手紙残して行方くらませた。新選組法度脱走切腹とされていた。近藤土方直ち沖田追っ手として差し向けた沖田だけを派遣したのは、弟のように可愛がっていた彼ならば山南抵抗しないだろうという、土方思惑よるものといわれている。大津沖田追いつかれた山南はそこで捕縛され新選組屯所に連れ戻された。 脱走原因には諸説ある。西本願寺侍臣西村兼文によれば山南追い詰めたのは屯所移転問題だったという。新選組隊士増えて壬生村手狭になったことから屯所京都市内西本願寺移したが、これには西本願寺勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも近い関係にあるという背景介在した。近藤はあえてその西本願寺屯所移してこの地を抑え将来禍根となりうる摘んでしまおう考えたのである勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤土方は全く取り合わずこののち山南新選組との決別意識するようになったという。 伊東や、試衛館以来親交があった永倉からは再度脱走勧められるが、山南死の覚悟決めていた。なお、山南馴染みにしていた島原遊女明里永倉配慮により、死の間際にある山南のもとに駆けつけ今生の別れ告げたと伝わるが、その永倉本人の手記『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には明里についての記述一切なく、現在では子母沢寛による創作可能性が高いと考えられている。 元治2年1865年2月23日切腹介錯山南希望により沖田がこれを務めた享年33その最期近藤は「浅野内匠頭でも、こう見事にはあい果てまい」と賞賛したという。墓は京都壬生屯所近く光縁寺にある。 伊東は、山南の死を悼んで4首を詠んだ春風吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし — 伊東甲子太郎

※この「脱走と最期」の解説は、「山南敬助」の解説の一部です。
「脱走と最期」を含む「山南敬助」の記事については、「山南敬助」の概要を参照ください。

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