脱走と最期
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元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の法度で脱走は切腹とされていた。近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けた。沖田だけを派遣したのは、弟のように可愛がっていた彼ならば山南も抵抗しないだろうという、土方の思惑によるものといわれている。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。 脱走原因には諸説ある。西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったという。新選組は隊士が増えて壬生村が手狭になったことから屯所を京都市内の西本願寺に移したが、これには西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも近い関係にあるという背景が介在した。近藤はあえてその西本願寺に屯所を移してこの地を抑え、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたのである。勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、こののち山南は新選組との決別を意識するようになったという。 伊東や、試衛館以来の親交があった永倉からは再度の脱走を勧められるが、山南は死の覚悟を決めていた。なお、山南が馴染みにしていた島原の遊女・明里が永倉の配慮により、死の間際にある山南のもとに駆けつけて今生の別れを告げたと伝わるが、その永倉本人の手記『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には明里についての記述が一切なく、現在では子母沢寛による創作の可能性が高いと考えられている。 元治2年(1865年)2月23日切腹。介錯は山南の希望により沖田がこれを務めた。享年33。その最期を近藤は「浅野内匠頭でも、こう見事にはあい果てまい」と賞賛したという。墓は京都の壬生屯所近くの光縁寺にある。 伊東は、山南の死を悼んで4首を詠んだ。 春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし — 伊東甲子太郎
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