聖蹟化の推進とは? わかりやすく解説

聖蹟化の推進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:04 UTC 版)

聖蹟桜ヶ丘」の記事における「聖蹟化の推進」の解説

1928年6月『連光聖蹟録』発行時点聖蹟記念するものとして次のものがあった。富澤政賢の居宅である富澤邸は明治天皇行在所となったところであった。向ノ岡の御駒(みこまざくら)は、明治天皇が行幸のたびに乗馬繋いだ桜木であった侍従藤波言忠命名した行幸(みゆきばし)が関戸から連光寺府道を行く途中っていた。1881年行幸の後、当時神奈川県沖守固命名した行幸当時当地神奈川県管下であった)。自体行幸当時のものではなく1925年けられた新しであった。ほか明治天皇御野立所の碑が大松山(現桜ヶ丘公園)に立っていた。 地域さらなる聖蹟化が進められた。明治天皇騎馬像制作し、これを安置する記念館を大松山(現桜ヶ丘公園)に建設することになった関係者建設委員会結成した田中光顕富澤政賢、宮川半助児玉四郎のほか、京王電軌から井上篤太郎渡辺孝が委員会加わった京王電軌新施設建設による乗客増加見込んでいた。同年8月関根要太郎率い関根建築事務所設計手掛けることになった関根建築事務所提出した計画案ははかなりスケール大きいものだった東西尾根列柱回廊を置き、建物北側噴水設け、山の斜面巨大な階段を持つという計画案であった同年11月18日御製碑を大松山建立した明治天皇御製1首と昭憲皇太后御歌2首を、田中光顕が4尺・8尺の大白紙に謹書して、これを高さ8尺・幅15尺の小豆島薄紅色花崗岩に彫り付け歌碑であった同年12月記念館とは別に、対荘という古屋敷寄贈を受け、翌1929年5月にこれを当地の向ノ岡へ移築した。この対荘は、もと太政大臣三条実美別邸で、隅田川西岸建っていた。明治初め征韓論政変心労病気になってここで療養していた三条実美明治天皇見舞い訪れ早く病を治して復帰するようにと諭したという由緒をもっていた。移築先の向ノ岡は明治天皇が行幸のたびに乗馬繋いだ場所であった移築田中光顕富澤らの協力得て実現した記念館は1929年10月12日起工した初め建設資金寄付賄う予定であったが、世界恐慌により全く金が集まらなかった。そこで当初計画案より規模縮小し楕円形の本館だけを予算10万円で建設することにして、京王電軌建設資金立て替えた騎馬像渡辺長男田中光顕依頼受けて制作した明治天皇初め当地訪れた30歳時の姿をモチーフにして、記念館の開館あわせて作られた。記念館は翌1930年6月26日竣工した関根要太郎蔵田周忠設計した近代鉄筋コンクリート造り円形大殿であった建物完成したが、建設関与した業者支払いできず、三菱財閥総帥岩崎小弥太から資金援助受けてようやく支払い済ませたという。こうして多摩聖蹟記念館同年11月9日開館式を挙げた明治天皇行幸記念する施設であった京王電軌記念館の工事多額援助をしたのは、当時日帰りハイキング史蹟巡りブームにのり、京王線利用して多摩御陵高尾山聖蹟記念館を巡るコース考えてのことだった。 1930年11月9日多摩聖蹟記念館開館式と同日、連光会は多摩聖蹟記念会へ改称した多摩聖蹟記念会は財団法人として、対荘をも管理し、これを一般に公開した。対荘の建物多摩聖蹟記念会の所有であるが、その敷地村社春日神社所有名義になっていた。

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