聖蹟化の推進
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1928年6月『連光聖蹟録』発行時点で聖蹟を記念するものとして次のものがあった。富澤政賢の居宅である富澤邸は明治天皇の行在所となったところであった。向ノ岡の御駒桜(みこまざくら)は、明治天皇が行幸のたびに乗馬を繋いだ桜木であった。侍従藤波言忠が命名した。行幸橋(みゆきばし)が関戸から連光寺へ府道を行く途中に架っていた。1881年の行幸の後、当時の神奈川県令沖守固が命名した(行幸当時当地は神奈川県管下であった)。橋自体は行幸当時のものではなく、1925年に架けられた新しい橋であった。ほか明治天皇御野立所の碑が大松山(現桜ヶ丘公園)に立っていた。 地域のさらなる聖蹟化が進められた。明治天皇の騎馬像を制作し、これを安置する記念館を大松山(現桜ヶ丘公園)に建設することになった。関係者で建設委員会を結成した。田中光顕、富澤政賢、宮川半助、児玉四郎のほか、京王電軌から井上篤太郎、渡辺孝が委員会に加わった。京王電軌は新施設の建設による乗客増加を見込んでいた。同年8月、関根要太郎の率いる関根建築事務所が設計を手掛けることになった。関根建築事務所が提出した計画案ははかなりスケールの大きいものだった。東西の尾根に列柱の回廊を置き、建物北側に噴水を設け、山の斜面に巨大な階段を持つという計画案であった。 同年の11月18日、御製碑を大松山に建立した。明治天皇の御製1首と昭憲皇太后御歌2首を、田中光顕が4尺・8尺の大白紙に謹書して、これを高さ8尺・幅15尺の小豆島産薄紅色花崗岩に彫り付けた歌碑であった。 同年の12月、記念館とは別に、対鴎荘という古屋敷の寄贈を受け、翌1929年の5月にこれを当地の向ノ岡へ移築した。この対鴎荘は、もと太政大臣三条実美別邸で、隅田川西岸に建っていた。明治の初め征韓論政変の心労で病気になってここで療養していた三条実美を明治天皇が見舞いに訪れ、早く病を治して復帰するようにと諭したという由緒をもっていた。移築先の向ノ岡は明治天皇が行幸のたびに乗馬を繋いだ場所であった。移築は田中光顕が富澤らの協力を得て実現した。 記念館は1929年10月12日に起工した。初め建設資金を寄付で賄う予定であったが、世界恐慌により全く金が集まらなかった。そこで当初計画案より規模を縮小し、楕円形の本館だけを予算10万円で建設することにして、京王電軌が建設資金を立て替えた。騎馬像は渡辺長男が田中光顕の依頼を受けて制作した。明治天皇が初めて当地を訪れた30歳の時の姿をモチーフにして、記念館の開館にあわせて作られた。記念館は翌1930年の6月26日に竣工した。関根要太郎と蔵田周忠が設計した近代式鉄筋コンクリート造りの円形大殿堂であった。建物は完成したが、建設に関与した業者に支払いできず、三菱財閥総帥の岩崎小弥太から資金援助を受けてようやく支払いを済ませたという。こうして多摩聖蹟記念館は同年11月9日に開館式を挙げた。明治天皇の行幸を記念する施設であった。京王電軌が記念館の工事に多額の援助をしたのは、当時の日帰りハイキング・史蹟巡りブームにのり、京王線を利用して多摩御陵・高尾山・聖蹟記念館を巡るコースを考えてのことだった。 1930年11月9日、多摩聖蹟記念館の開館式と同日、連光会は多摩聖蹟記念会へ改称した。多摩聖蹟記念会は財団法人として、対鴎荘をも管理し、これを一般に公開した。対鴎荘の建物は多摩聖蹟記念会の所有であるが、その敷地は村社の春日神社の所有名義になっていた。
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