聖蹟桜ヶ丘の名前の由来
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「聖蹟桜ヶ丘」の記事における「聖蹟桜ヶ丘の名前の由来」の解説
「明治天皇聖蹟#聖蹟桜ヶ丘」も参照 聖蹟桜ヶ丘の地名は、天皇の行幸した土地を意味する聖蹟と、江戸時代からの向ノ岡を中心とした桜の名所とに由来する。 多摩市は古くから桜の名所で、連光寺の向ノ岡には多くの桜の木が植えられていた。江戸時代後期になると老木になったので、幕末の万延5年(1860)に連光寺村の名主・富澤政恕が村民と共に桜の木を約350本植えて復興した。やがて桜の木が成長し、向ノ岡の桜林として有名になった。その後大正から昭和初期にかけてこの附近で草競馬が催され桜馬場と呼ばれるようになった。現在の向ノ岡桜橋(川越街道にかかる陸橋)附近に桜楽軒という茶屋が設けられていた。戦前には桜の季節に都市部からの花見客で賑わった。 この間、明治天皇は1881年2月に初めて連光寺村へ行幸し、それ以来4回にわたって同地を訪れて兎狩や鮎漁などを観て楽しんだ。1882年5月、連光寺村を中心とする境域が「御遊猟場」として指定され、翌年7月に「連光寺村御猟場」という名称が正式に定められた。連光寺村御猟場の運営は富澤政恕に任された。連光寺村御猟場が1917年に廃止された後は、富澤政恕の子・政賢らが明治天皇の御遺蹟(聖蹟)保存運動を行った。 大正ごろから三多摩各地で観光開発が進む中で、連光寺でも聖蹟を核として向ノ岡一帯を名所として開発する構想が具体化していった。玉南鉄道(現京王電鉄)が向ノ岡の桜馬場一帯の丘陵地を借り受けて、ここを桜ヶ丘と名づけて大規模な遊園地として開発する計画が明らかになった。こうした動きの一環として、田中光顕らが中心となって多摩聖蹟記念館を明治天皇の顕彰館として建設した。これは当地を多摩御陵と並ぶ聖蹟と位置づけようとしたものであった。記念館周辺に桜の木を植えて風致を整え、記念館を中心として向ノ岡一帯の観光開発を進めた。地元も観光地化に力を入れ、百草園や高幡不動と聖徳記念館を結ぶ多摩丘陵にハイキングコース「多摩遊覧道路」を計画した。向ノ岡は1930年版「京王電車沿線名所図会」にも大きく描かれ、京王電軌の力の入れようが伺える。京王電軌も地元も聖蹟を中心に観光開発を進めることが地域の発展に繋がると考えた。こうした背景のもと1937年5月に京王線の関戸駅を聖蹟桜ヶ丘駅に改称し、聖蹟桜ヶ丘という新しい地名が誕生した。
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