聖蹟指定と聖蹟桜ヶ丘誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:04 UTC 版)
「聖蹟桜ヶ丘」の記事における「聖蹟指定と聖蹟桜ヶ丘誕生」の解説
1933年、対鴎荘が「明治天皇行在所対鴎荘及旧阯」の一部として国の史蹟に指定された。隅田川沿いの旧阯とセットでの指定であった。同時に富澤家住宅が「明治天皇連光寺御小休所」として国の史蹟に指定された。富澤家住宅の建物は慶長5年(1610)の上棟建築とされた。1881年2月、1882年2月、および1884年3月の各行幸で御小休所にあてられた。史蹟指定当時は旧状をよく保存していた。1935年には富沢家住宅の敷地に石柱を建設した。対鴎荘と富沢家住宅はそれぞれ文部省史蹟調査報告書『明治天皇聖蹟』に掲載された。 京王電軌は1937年に当地付近の関戸駅を多摩聖蹟桜ヶ丘駅へ改称した。聖蹟記念館を中心に遊園地化する思惑であった。しかし、田中光顕は聖蹟記念館を精神修養の道場にしようと考えていた。意見が対立した京王電軌は手を引いた。1939年、田中光顕が95歳で没した。多摩聖蹟記念館は、運営に苦労するが、戦時中には精神の発揚・修養のための施設として多くの人々が訪れた。 この間の1940年、すなわち皇紀2600年の仲秋に「明治天皇御野立所」の碑を建立した。碑文によると、ここは明治天皇の行幸のとき仮小屋を建て昼食所に充てた聖蹟であり、「大松山御昼餐所」と称するという。「大松山御野立所」とも称する。石碑は多摩聖蹟記念館構内の入口付近に立つ。
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