聖蹟の宣伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:04 UTC 版)
当地の明治天皇聖蹟は新興マスメディアに乗って宣伝された。1928年、写真週刊誌アサヒグラフ1月25日号に当地の明治天皇御遺蹟を紹介する記事が載った。2月19日、富澤政賢はラジオ放送で明治天皇の行幸について講演した。富澤政賢は多摩村の名望家で村長であった。4月8日、田中光顕は前年秋の約束を履行して、多摩村連光寺を来訪して聖蹟をくまなく巡った。かつて幕末維新の時代、田中光顕は倒幕運動に命を懸けたが、倒幕派浪士を斬った新選組の幹部は多摩の出身だった。富澤政賢の父は天然理心流で近藤勇と兄弟弟子であり、新選組と深い交流をもっていた。幕末の京都に上洛したときも壬生の新選組を訪ねて近藤勇と語らったことを日記に記していた。さらに土地の売り主の宮川半助は近藤勇の孫であった。宮川は金に困って土地を売り出したのだが、田中光顕から聖蹟保存の話を聞いて、3万坪の土地のうち半分を寄付することにした。宮川家としては「かつて勤皇の志士を斬った罪亡ぼし」の気持ちもあったという。当時は子母澤寛の新選組始末記が出版されたり、かつて新選組を預かった会津藩主松平容保の孫娘が秩父宮妃に決まったりと、新選組関係が見直された時でもあった。 田中光顕は、明治天皇が当地で詠んだ御製を探して宮中の御歌所長に調査を依頼した。すると、明治17年(1885年)5月連光寺兎猟の際に詠まれた御製「春ふかき 山の林に きこゆなり けふをまちけむ 鶯の聲」が見つかった。この御製は宮中に秘蔵された御全集にあるものの、公表された明治天皇御集に収録されていない貴重な歌であった。この御製を田中光顕が謹書して、1928年6月に聖蹟奉頌連光会より発行した『連光聖蹟録』に掲げた。同書は児玉四郎が編纂したもので、同書を発行した聖蹟奉頌連光会は、単に連光会ともいい、田中光顕を名誉会長として、彼が当地を訪れた日に遡って創設された形をとる団体であった。会の目的は、多摩村連光寺における天皇行幸と皇太后行啓について「聖蹟を永遠に保存し、その洪大なる余光・余声の跡をあまねく国民に周知せしめ、もって聖徳の奉頌・尊皇心の涵養に資せんことを期す」とされた。所在地は多摩村でなく代々幡町(現渋谷区)笹塚であった。富澤政賢らが田中光顕の協力を得て聖蹟奉頒連光会を設立したともいわれる。
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