滝川雄利とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 滝川雄利の意味・解説 

滝川雄利

(羽柴雄利 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 09:52 UTC 版)

 
滝川 雄利
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文12年(1543年
死没 慶長15年2月26日1610年3月21日
改名 源浄院主玄、滝川友足、一盛、雄利、羽柴雄利、一路(法号)
別名 友忠、雅利、勝雅、雄親
通称:兵部少輔、三郎兵衛、刑部卿法印
戒名 桂徳院殿前法印三英周傑庵主
墓所 泰寧寺茨城県石岡市根小屋)
官位 従五位下下総守
幕府 江戸幕府
主君 木造具政織田信雄豊臣秀吉秀頼 → 浪人 → 徳川秀忠
常陸片野藩
氏族 木造氏滝川氏羽柴氏
父母 [①]父:柘植三郎兵衛、母:木造具康の娘
[②]父:柘植三郎兵衛、母:木造俊茂の娘
[③]父:木造具康、母:某氏
[④]父:木造具政、母:木造俊茂の娘
[⑤]父:木造俊茂、母:某氏
養父(または猶父):滝川一益
兄弟 [③の場合]木造具次
[④の場合]木造長政、木造長雄
[⑤の場合]木造具康
[一説に]滝川一益の娘、生駒家長の娘
正利、龍光院
養女:宝樹院[注釈 1]鳥居忠政正室)
テンプレートを表示

滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主[1]織田信雄家老[2]豊臣秀吉徳川秀忠御伽衆[3]

出自と名前

伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。

寛永諸家系図伝』の木造氏系図[4]では①柘植三郎兵衛[注釈 2]木造具康の娘、星合氏系図[6]では②柘植三郎兵衛[注釈 2]と具康の父である俊茂の娘の間の子とし、他方で滝川氏系図[7]では③父が具康とする。また、『寛政重修諸家譜』の編纂時に滝川家が提出した家譜では、④雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた[8]。さらに、新井白石は『藩翰譜』で雄利は⑤俊茂の三男であるとし[9]、『系図纂要』も同様に雄利を俊茂の子としている[10]

はじめ出家して源浄院の僧・主玄を称し、のちに還俗して滝川一益から滝川の苗字を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。書状の署名から確認されるは初め友足(ともたり)[11]または友忠(ともただ)[12] [注釈 3]本能寺の変の後、主君である織田信雄織田家当主の座についた頃(天正10年(1582年)末)から豊臣秀吉に臣従する(天正13年(1585年))までの間は一盛(かずもり)[12]を称し、次いで信雄の偏諱を受けて雄利(かつとし)と改名した[14][注釈 4]。また、『寛政譜』は初名を雅利(まさとし)とする[8]ほか、勝雅(かつまさ)、雄親(かつちか)という名も伝わる[2][16]

滝川一益との関係は、『藩翰譜』では単に苗字を授与された[9]、『寛政譜』では一益の甥分とされた[8]とするが、『池田氏家譜集成』所収の滝川氏系図[注釈 5]では一益の養子とする[17]。また、一益の娘婿に迎えられたとする説もある[3]。一益の没落後は豊臣秀吉から羽柴の苗字を与えられて羽柴下総守を称した[16][注釈 6]江戸幕府に仕えて剃髪した晩年も羽柴刑部卿法印と称し、滝川に復姓したのは息子正利の代である[18]

生涯

天文12年(1543年)伊勢国一志郡木造で木造氏一門の庶子として生まれ、父母の命により若くして出家して源浄院[注釈 7]に住持した[8][9][20]

永禄12年(1569年)、織田信長北畠家攻略戦の時に、柘植三郎左衛門尉(雄利の実父とする説のある柘植三郎兵衛の弟[5])と共に当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きしてその勝利に貢献した[21]。このとき、信長の家臣滝川一益は雄利(源浄院)の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川兵部少輔と名乗らせ、信長に仕えさせた[8][22]

信長の命により、柘植三郎左衛門尉と共に北畠家に養子入りした北畠具豊(織田信雄)の家老となり[23]、通称を三郎兵衛に改める[22]天正4年(1576年)11月25日、北畠具教の居城・三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(三瀬の変[24][25]。同年、信長によって信雄の補佐役に付けられていた織田氏一門の津田一安が失脚して誅殺され、雄利ら木造氏一門が信雄補佐の主導権を握った[13][注釈 8]

天正6年(1578年)、信雄の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修繕するが伊賀衆(伊賀の国侍衆)の反撃に遭い伊勢国へ敗走した[27][28][注釈 9]。翌7年(1579年)、信雄は敵対した伊賀に雄利らの軍勢を送ったが、柘植三郎左衛門尉が夜襲を受けて戦死し、雄利も撤退した(第一次天正伊賀の乱[29]。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には、雄利は主力とともに近江側から侵攻する信雄に代わって伊勢方面の大将となり、織田家一門衆の織田信包を含む伊勢衆を率いて加太口からの侵攻を受け持った[30][31][32]。伊賀国の制圧後、雄利は丸山城を与えられ[33][34]、同国4郡中3郡を得た信雄から同国の支配を任せられた[35][36]。また、雄利が平楽寺の跡に築いた砦が伊賀上野城の起源になったとされる[37]

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった際に伊賀に在国していた信雄の家臣の多くが伊勢に逃亡した隙に伊賀衆の一揆が蜂起し、翌11年(1583年)には伊勢で蜂起して敗れた北畠具親が伊賀に落ちのびた。雄利は信雄の命を受けて伊賀の制圧を任せられ、苦戦しながら平定していった[38][注釈 10]。同年、羽柴秀吉によって織田信孝柴田勝家が滅ぼされ(賤ヶ岳の戦い)、信孝・勝家に与した滝川一益も没落したが、雄利は伊勢国南部と伊賀国に加えて尾張国と伊勢国北部・中部を得て織田家当主の座に着いた信雄の右腕という立場になり[13]、織田家宿老として台頭した秀吉から羽柴の苗字を授与されて「羽柴三郎兵衛尉」を称した[16]

天正12年(1584年)、信雄が秀吉との関係を悪化させ、秀吉に通じたとして津川義冬ら3家老を殺した際に、雄利も秀吉に近しい立場であるが粛清を免れ、信雄を支持した[41][注釈 11]。信雄が徳川家康と同盟して秀吉と争った小牧・長久手の戦いでは、雄利は津川義冬の居城であった松ヶ島城を接収し、南伊勢の防衛に当たった[42][注釈 12]。雄利はここで家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対して籠城したが、一か月足らずで二の丸まで攻め込まれるほど追い詰められ、奮戦及ばずに城兵の助命を条件に開城した[44]。雄利は尾張に退いて信雄と合流した後、北伊勢の四日市西城、次いで浜田城に入って再び篭城した[45][46][注釈 13]。信雄が秀吉と単独講和すると、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣された[8]

豊臣政権の下では豊臣秀吉に臣従して尾張と伊勢北部を領有する大名となった信雄の重臣として北伊勢の運営を任され[47]、天正13年(1585年)に生駒親正の居城であった神戸城が信雄に譲渡されると同城を居城とした[9]。同年頃に作成された『織田信雄分限帳』では3万8370貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている[2]。また、信雄の母生駒氏の姪(信雄従妹)を妻に迎えている[48]

雄利は秀吉の直臣としての地位も有していたとみられ[49]、天正14年(1586年)、家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した[8]。その後は九州平定に参加し、長束正家小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられた[50]。同年末には下総守に叙任された[16]

天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している[51]。7月13日、織田信雄が改易され、雄利の居城だった神戸城は元刈谷城水野忠重に与えられる[52]が、雄利自身は失脚せず、小田原征伐の戦後処理に従事していた[49]。翌19年(1591年)頃に出家した旧主信雄にならって剃髪し、羽柴下総入道と称するが、文禄2年(1593年)までに還俗し[14]、文禄3年(1594年)、旧領の伊勢神戸城に復帰して独立した大名となった[52][注釈 14]。所領高は『寛政重修諸家譜』によれば2万石[8]、『当代記』によれば2万7,000石[54]

文禄3年(1594年)には伊勢国検地の奉行を務め、また同年の伏見城普請で2万7,000石の役儀を務めた[1]。翌文禄4年(1595年)、検地の終了に伴い員弁郡で5,000石を加増されたが[2]、所領宛行の朱印状は本知1万7,000石に加増地5,000石を無役で与えるものとなっており、合計した所領高は2万2,000石の計算となる[1]。同年には秀次事件に連座したが[注釈 15]、秀吉の御咄衆となって所領を保った[55][注釈 16]

慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐には参加せずに大坂におり、7月に石田三成が挙兵の動きを見せた時は上方の情勢について家康の嫡男秀忠と連絡を取り合っていた[57]が、三成が蜂起すると伊勢口の防備に動員されて西軍に与した[58]関ヶ原の戦いには不参加で戦後も居城・神戸城に籠城していたが、甲賀衆を率いて伊勢方面の西軍残党を鎮定していた山岡道阿弥に降伏し、改易されて所領を失った[52]

慶長8年(1603年)、徳川秀忠に召し出されて常陸国片野2万石の所領を与えられ[8]、御咄衆(相伴衆)として秀忠に近侍した[3][59][60]。慶長13年(1608年)頃までに再び出家して一路と号し、羽柴刑部卿法印と称する[16]

慶長15年(1610年)に死去した[8]

人物・逸話

  • 丸山合戦の際、雄利は比自岐(ひじき)あたりで伊賀衆と合戦になり、谷底へ追い詰められた。雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ伊賀衆に攻めあぐねさせ、ついに夜間のうちに抜け出して無事に帰還した。雄利の兵も戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ。(『伊乱記』[61]
  • 小牧・長久手の戦いの開戦以前、雄利は羽柴秀吉に人質を差し出し、脇坂安治に預けられていたが、雄利は計略で安治を欺いて人質を取り返した。安治はわずかな手勢を率いて雄利を追撃し、伊賀の国人を扇動して大軍に見せかけたため、雄利は伊賀を捨てて伊勢に逃亡した。(『藩翰譜[9]
  • 雄利が籠城していたとき、出撃して攻め手と戦ってから城内に引き上げた際に追撃してきた敵を家臣が門を塞いで閉じ込めた。ところが、雄利は家臣に命じて門を開けさせ、敵兵2人を見逃して討ち取らなかった。援軍に来ていた徳川家康の家臣近藤秀用が疑問に思って理由を聞くと、雄利は「閉じ込められて死地に入った敵を討とうとすれば死にものぐるいに戦って城兵に多くの死傷者が出るだろう。逃したところで勝敗にかかわるものではない」と答えた。秀用はさすが武功の人であると感心した。(『常山紀談[62]
  • 豊臣秀吉が美女を集めて酒宴を開き、雄利に「合戦に勝利を得てこのように美女を集めて楽しんでいるのだ」と戯れを言った。すると雄利は刀を抜いて女たちを追い払ったので、秀吉が驚いて「何ということをするのだ」ととがめると、雄利は「先ほどおっしゃったのはただの戯言では済みません。天下の大敵にさえお負けにならなかった大将があのような女どもにお負けになって政治をおろそかにし、その上病気にでもなったらもってのほかです。おそらくあの女の中に敵が混じっていたに違いないと思って切り殺そうと追いかけたのですが、大勢の中なので敵を見つけられませんでした」と諫言したので、秀吉も道理であると笑って収めた。(『明良洪範』[63]

子孫

はじめ子がなく、正室の妹である生駒家長の娘(宝樹院)を養女に迎えた[64]。宝樹院は徳川家康の重臣鳥居元忠の次男忠政に嫁いだが、『名将言行録』は天正14年(1586年)に家康が上洛して豊臣秀吉に臣従した際に、秀吉が家康に小姓として近侍する忠政を気に入って雄利の婿養子にしようとしたが、父の元忠が固辞したため婚姻のみ結ばれたと伝える[65]。その後、天正18年(1590年)に嫡男正利が生まれた[8]

また、正利と同じ頃に生まれた娘がいたが、慶長10年(1605年)に若くして亡くなった。雄利はこの娘の菩提所である京都金戒光明寺塔頭龍光院の開基となっている[66]

雄利の死後、片野藩2万石は正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永2年(1625年)に所領を幕府に返上して死去した[18]

正利には娘がおり、幕命により譜代大名土岐定義の次男で徳川秀忠の小姓であった利貞が婿に入って滝川家の名跡を継承した[8]。滝川家は4,000石の旗本として幕末まで続き、また1,200石を領した分家から幕末の大目付滝川具挙が出ていて、子孫は本家・分家とも明治以降も存続している[67][68]

脚注

注釈

  1. ^ 生駒家長の娘。
  2. ^ a b 柘植三郎兵衛は北畠氏または木造氏の家臣で、柘植三郎左衛門尉の兄ともいう[5]
  3. ^ 天正10年9月23日付け滝川三郎兵衛尉判物(伊勢国一志郡佐藤家文書)による。本文書署名を『大日本史料』は友足[11]、『三重県史資料編』は友忠[12]と読む。友足が多数説で[2][13][14]、原文書所蔵者の石水博物館も友足説をとる[15]
  4. ^ 小川雄によれば、初名「友足」の友は北畠氏・木造氏の通字である具(とも)と同訓、「雄利」の利は雄利の父と言われる俊茂ら木造家歴代の名に用いられた俊(とし)と同訓で、名前によって木造一族であることを表現したものと考えられる[13]。また、西尾大樹は、「一盛」の名は、清洲会議に参加できずに没落した滝川一益に代わる織田家の宿老の地位を意識した名である可能性を指摘している[14]
  5. ^ 『池田氏家譜集成』の編者池田冠山が雄利の子孫である旗本滝川利雍に依頼して借覧したもの[17]
  6. ^ 天正年間の書状では「羽柴下総介」とする場合もあり、一定していない[14]
  7. ^ 源浄院は『勢州軍記』では源浄寺、『藩翰譜』では現常院と表記される。木造にあった曹洞宗の寺院で[19]、木造氏の菩提所であったとされる[20]。なお、『藩翰譜』の刊本の欄外注は一志郡阿坂にあったとしているが、これは北畠氏菩提寺の浄眼寺と混同したものである[9]
  8. ^ 『勢州軍記』は津田一安誅殺を雄利と柘植三郎左衛門尉の讒言によるものとする[26]
  9. ^ ただし、滝川雄利による丸山城の修繕および伊賀衆との丸山合戦は江戸時代に入ってから伊賀国人によって編纂された『伊乱記』などの軍記物や地誌によっており、良質な史料では事実として確認できない。小川長保の覚書によれば、伊賀衆の離反は、北畠家が国司に出仕する伊賀衆に与えていた若干の知行を信雄が雄利と柘植三郎左衛門尉の進言に従って取り上げたのに反発したためという[29]
  10. ^ 伊賀一揆平定における雄利の働きについて『勢州軍記』は「人々これを誉む」、『勢州兵乱記』は「大剛之者也」と述べている[39][40]
  11. ^ 雄利は粛清された3家老ほど秀吉寄りの動きをしていなかったとされる[41]。雄利も秀吉から内通の誘いを受けていたが拒絶したとも言われる[2]
  12. ^ このとき、雄利不在の伊賀では国衆が蜂起して伊賀上野城を占拠しており、開戦と同時に秀吉配下の脇坂安治に制圧されている[43]。なお、『藩翰譜』では雄利が安治に攻められて伊賀から逃れたように記しているが[9]、誤り。
  13. ^ ただし、籠城中の5月24日付けで秀吉が雄利に宛てた書状によると、雄利は秀吉と交戦しながらひそかに内通し、連絡を取り合っていた模様である[41]
  14. ^ 『寛政重修諸家譜』の滝川氏家譜では雄利は織田信雄改易後に秀吉に属して伊勢国神戸城2万石を与えられたとするが、同書の水野氏家譜では三河国刈谷城水野忠重が天正18年(1590年)に織田信雄改易後の伊勢国神戸城4万石に移され、文禄3年(1594年)に旧領刈谷に戻されたとしており[53]、矛盾している。水野氏が神戸に移封されていた間、滝川雄利の所領とがどこにあったかは不詳。
  15. ^ 秀次事件の連座により一時失領したとする資料もある[55]
  16. ^ 小瀬甫庵の『太閤記』によれば、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際して御咄衆として遺物金の分与を受け、15両を拝領した[56]

出典

  1. ^ a b c 国史大辞典 1988, pp. 93–94.
  2. ^ a b c d e f 谷口克広 2010, pp. 265–266.
  3. ^ a b c 戦国人名事典 1987, p. 477.
  4. ^ 『寛永系図』第13, p. 212.
  5. ^ a b 『寛永系図』第13, p. 241.
  6. ^ 『寛永系図』第13, p. 236.
  7. ^ 『寛永系図』第12, p. 224.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政譜』, p. 424.
  9. ^ a b c d e f g 『藩翰譜』, p. 44.
  10. ^ 『系図纂要』第9冊上、名著出版、1991年、164頁.
  11. ^ a b 東京大学史料編纂所編『大日本史料』第11編之3、東京大学、1930年、314頁.
  12. ^ a b c 三重県編『三重県史』資料編 近世 1 本編、三重県、1993年、421-423頁.
  13. ^ a b c d 柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』戎光祥出版、2024、342-345頁.
  14. ^ a b c d e 西尾大樹 2022, pp. 5–6.
  15. ^ 重要文化財 佐藤家文書の世界” (pdf). 石水博物館. 2025年6月7日閲覧。
  16. ^ a b c d e 黒田基樹 2016, pp. 150–153.
  17. ^ a b 池田氏家譜集成 巻37(32-34コマ)
  18. ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, 271頁.
  19. ^ 「「天正伊賀の乱」(和田裕弘、中公新書)P134に滝川雄利は「伊勢源浄院の僧侶で主玄と称していた」とあるが、伊勢源浄院が南勢のどこにあったか分かる本や写本や古地図はあるか。」レファレンス協同データベース
  20. ^ a b 『勢州兵乱記』, p. 589.
  21. ^ 『勢州軍記』, p. 23.
  22. ^ a b 『勢州軍記』, pp. 28–29.
  23. ^ 小川雄 2011, p. 157.
  24. ^ 小川雄 2011, p. 165.
  25. ^ 『勢州軍記』, pp. 36–37.
  26. ^ 『勢州軍記』, pp. 39–40.
  27. ^ 和田裕弘 2021, pp. 131–133.
  28. ^ 『伊乱記』, 巻2, 1丁表-4丁裏.
  29. ^ a b 和田裕弘 2021, pp. 135–143.
  30. ^ 小川雄 2011, pp. 167–168.
  31. ^ 和田裕弘 2021, pp. 163–164.
  32. ^ 太田牛一『信長公記』巻之下、甫喜山景雄、1881年、29丁表.
  33. ^ 和田裕弘 2021, p. 167.
  34. ^ 『勢州軍記』, pp. 47.
  35. ^ 小川雄 2011, p. 172.
  36. ^ 「諸国廃城考」『日本城郭史料集』人物往来社、1968年、34頁.
  37. ^ 文化財調査会編『日本の名城』人物往来社、1959年、140頁.
  38. ^ 和田裕弘 2021, pp. 194–203.
  39. ^ 『勢州軍記』, p. 50.
  40. ^ 『勢州兵乱記』, p. 595.
  41. ^ a b c 平山優 2024, pp. 347–348.
  42. ^ 平山優 2024, pp. 80–81.
  43. ^ 平山優 2024, p. 112.
  44. ^ 平山優 2024, pp. 135–136.
  45. ^ 平山優 2024, pp. 331–335.
  46. ^ 『勢州軍記』, p. 64.
  47. ^ 『勢州軍記』, pp. 70–71.
  48. ^ 「生駒家系譜」(生駒家所蔵)(江南市史編纂委員会編『江南市史』資料4 (文化編)、江南市、1983年、261頁.
  49. ^ a b 西尾大樹 2022, p. 1.
  50. ^ 「宗湛日記」『福岡県史資料 第5輯』福岡県、1935年、192頁.
  51. ^ 「天正記」『戦国史料叢書 第1』人物往来社、1965年、144頁.
  52. ^ a b c 鈴鹿市教育委員会編『鈴鹿市史』第2巻、鈴鹿市、1983年、48-49頁.
  53. ^ 『寛政重脩諸家譜. 第2輯』國民圖書、1923年、825頁.
  54. ^ 国書刊行会編『史籍雑纂』苐二、国書刊行会、1911年、64頁.
  55. ^ a b 小和田哲男「滝川雄利」『朝日日本歴史人物事典』コトバンク
  56. ^ 「太閤記」『史籍集覧 第6冊 第6冊 通記類』近藤出版部、1919年、470頁.
  57. ^ 参謀本部編『日本戦史』關原役文書補傳, 第3版, 元真社, 1911年, p.26.
  58. ^ 参謀本部編『日本戦史』關原役文書補傳、第3版、元真社、1911年、42頁.
  59. ^ 藩主人名事典 1986, pp. 42–43.
  60. ^ 大日本人名辞書 1926, p. 1514.
  61. ^ 『伊乱記』, 巻2, 3丁裏-4丁表.
  62. ^ 湯浅元禎『常山紀談』有朋堂、1912年、214頁.
  63. ^ 真田増誉『明良洪範 : 25巻 続篇15巻』国書刊行会、1912年、406頁.
  64. ^ 江南市史編纂委員会編『江南市史』資料4 (文化編)、江南市、1983年、281頁.
  65. ^ 岡谷繁実『名将言行録』6、岩波書店、1944年、244-245頁.
  66. ^ 増補京都叢書刊行会編『亰都叢書 第16 増補』増補京都叢書刊行会、1935年、438頁.
  67. ^ 森潤三郎「瀧川南谷傳(五)」『日本及日本人』第387号、政教社、1940年8月、60-65頁.
  68. ^ 野澤日出夫「瀧川一益の末裔」『日本姓氏家系総覧』新人物往来社、1991年、258-261頁.

参考文献

  • 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、477頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12190206/242 
  • 小川雄「織田権力と北畠信雄」『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年、155-178頁。 
  • 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、150-153頁。 
  • 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 9巻、吉川弘文館、1988年、93-94頁。 
  • 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書』(新版)大日本人名辞書刊行会、1926年、1514頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879535/37 
  • 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典』(増補版)吉川弘文館、1973年、145頁。 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、265-266頁。 
  • 西尾大樹「豊臣政権成立期の織田信雄とその家臣 滝川雄利文書の検討を中心に」『織豊期研究』第24号、2022年、1-19頁。 
  • 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 2巻、新人物往来社、1986年、42-43頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12190431/25 
  • 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 3巻、新人物往来社、1987年、195頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12190274/101 
  • 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』KADOKAWA、2024年。 
  • 和田裕弘『天正伊賀の乱 信長を本気にさせた伊賀衆の意地』中央公論新社、2021年。 

関連項目

  • 丸山城 – 三重県伊賀市。織田政権期の居城。
  • 滝川氏城 – 三重県名張市。伊賀支配のため築城した。
  • 神戸城 – 三重県鈴鹿市。豊臣政権期の居城。
  • 片野城 – 茨城県石岡市。晩年の居城。
  • 龍光院 – 京都市左京区。娘の菩提を弔うために建立した。
  • 泰寧寺 – 茨城県石岡市。葬地。子孫滝川利済が立てた供養碑が現存している。
  • 桂徳院 – 東京都練馬区。息子滝川正利が雄利の菩提を弔うために建立した。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「滝川雄利」の関連用語

滝川雄利のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



滝川雄利のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの滝川雄利 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS