休戦・講和
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詳細は「下関条約」を参照 1895年(明治28年)3月19日(光緒21年2月23日)、清の全権大使李鴻章が門司に到着した。下関での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。5月8日(4月14日)、清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。
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休戦・講和
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秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国した。信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。 その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。こうして、小牧の役は終わった。
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