結党と初期の活動
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「ミシェル・アフラク」の記事における「結党と初期の活動」の解説
アラブバアス党の最初の大会は1947年にダマスカスで開催された。アフラクは「アミド」('長老'、または'リーダー'と訳せる)として卓越した地位を得た上に、4人から構成される執行委員会に選出され、大会で採択された綱領の下で、指導者としての確固たる地位を確立した。ビータールが民族指導部事務局長に選出された一方で、もう一つのアラブバアス運動のアルスーズィーは役職も党員資格も与えられなかった。アフラクはアミドとしてイデオロギー担当を務め、ビータールが党の日常的管理を担当した。合併問題が証明するように数名の旧アルスーズィー派のメンバーはより左傾化し、後にアフラクに批判的になっていった。。1940年代、アフラクとビータールはバアス主義思想に関する講演を無償で行ない、1948年、日刊紙「アル=バアス」(再生)を創刊した。アフラクは、第一次中東戦争中に、シリアの早期敗退を受けてシュクリー・アル=クーワトリー政権へのデモを数回実施した。彼はクーワトリーを、地主で腐敗した資本主義者の政治家とし、シリア敗北の責任があると避難した。クーワトリーに辞任を迫り、「アル=バアス」の記事においてもクーワトリー大統領とジャミール・マルダム・ベイ首相を批判した。その後、アフラクはクーワトリー政権によって逮捕された。結局、クーワトリー政権は軍将校フスニー・アル=ザイームのクーデターで打倒された。ザイーム政権は、シリアは自由民主国家になる準備が出来ていないとして、全ての政党を禁止した。アフラクは一旦は、釈放されていたがザイーム政権にも再逮捕され、悪名高いメゼフ刑務所に送られた。しかし、ザイーム政権は短命で1949年8月に倒され、民主的な選挙で選ばれたハーシム・アル=アターシーが大統領に就任した。アターシーは挙国一致政権を志向し、アフラクも教育大臣に任命された。12月まで務めたが、彼が唯一得た政府ポストとなった。アターシー政権も長くは続かず、1951年にアディーブ・アル=シーシャクリーのクーデターにより政権を奪われた。 アフラクは当初、シーシャクリー政権とはアラブ・ナショナリストの価値観を共有しており、協力していけると信じていた。しかし、その分析は間違いであり、シーシャクリー政権はバアス党を含む全ての政党を禁止した。政府からの弾圧を逃れるため、バアス党指導部はレバノンに退避した。レバノンにおいて、ホーラーニー率いるアラブ社会党と合併し、1953年にアラブ社会主義バアス党となった。新生バアス党はシーシャクリー政権への反対勢力の中心となり、他の反政府勢力と協力し、1954年2月にシーシャクリー政権を打倒した。
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結党と初期の活動
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「バスク民族主義党」の記事における「結党と初期の活動」の解説
1895年、バスク民族主義党はサビーノ・アラーナらによって設立された。当初はキリスト教保守主義を掲げ、フエロスに基づく地方自治の再生と「バスク民族」の防衛を掲げていた。党員は、バスク語の姓を持っていることによって先祖代々のバスク人であることを証明しなければならなかった。1898年の県会議員選挙でアラーナが当選。1899年にはビルバオ市議会にバスク民族主義党から出馬した候補5名が当選した。1903年、サビーノ・アラーナは病没する。 1921年、アラーナが起こした運動は、穏健な民族主義者 Comunión Nacionalista Vasca (CNV) と、スペインからの独立を求める Aberri (「祖国」)に分裂した。 プリモ・デ・リベーラの独裁下(1923年 - 1930年)において、民族主義者たちの政党は非合法化され、弾圧を受けた。しかしながらその活動は、登山クラブや民俗学クラブを装って続けられた。 1930年末、AberriとCNVは再びバスク民族主義党という名の下に合同した。しかし、一部のグループはこの合同に参加せず、バスク民族主義行動党(Acción Nacionalista Vasca、略称: ACV)を結成した。ACVは穏健民族主義左派であり、独裁に抗する共和主義者や社会主義者と結んでいた。 地方分権に寛容であったスペイン第二共和政(1931年 - 1939年)の下で、スペイン国内での自治を目指すのか、スペインからの独立を目指すのかという路線対立が再び現れた。1934年から1935年にかけて、Eli Gallastegi ら急進的な独立主義者の小グループは、週刊誌 "Jagi-Jagi" とビスカヤ登山連盟を中心に結集してバスク民族主義党を離脱し、バスク民族主義党が求める自治主義を拒絶した。
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