1931年 - 1939年
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「シスオート」の記事における「1931年 - 1939年」の解説
フィンランド自動車工業(Oy Suomen Autoteollisuus Ab, SAT)として1931年4月1日に創立する。ヘルシンキを拠点とする2つのコーチビルダー「ビリンダストリ=自動車工業(Autoteollisuus-Bilindustri)」と「ボディファクトリー(Autokoritehdas)」が合併したことによって誕生しており、1930年代初頭、双方共に財政難に陥っていた。両社に資金を貸し付けていた銀行が事業を一つに纏めることを迫ったことにより合併が行われている。カール・アーサー・ノルドグレン(Karl Arthur Nordgrén)エミル・アントン・ウィンケルマン(Emil Anton Winckelmann)ラーシュ・ヴィルヘルム・オーベリ(Lars Wilhelm Åberg)の3名が創立者となっており、最初に行われた社内会議に於いてゼネラルマネージャーとしてジョン・ヘルステン(John Hellsten)を、テクニカルマネージャーにトーア・ネスリング(Tor Nessling)を起用している。 SATは当初、それまで行われていたボルボシャーシを使用した長距離向け大型バスの製造事業を継続しながら、自社の新型車両の開発を行っている。ボルボシャーシを使用した車体製造経験からシャーシを進化させる方法を確立しており、これを利用した車体を基礎とした車両を形成している。 事業が開始されるとSATは新しい自社ブランド名を模索しており、1932年の夏、優勝賞金1,000mkが設定されたブランド名を募集する大規模な広告を主要新聞各社に対し掲載している。このキャンペーンは大きな注目を集め、3,000から4,000件の応募が寄せられており、夏前までに候補者が3名まで絞られ「SISU」「Karhu(カルフ)」「Haukka(ホウカ)」の中から最終的にシスが選ばれている。優勝賞金は同名での応募が多数寄せられていたことから抽選に変更されている。 1932年、シス初となる9台の「Sisu S-321とS-323」を顧客に引き渡している。この内6台はトラック仕様であり、1台がバス仕様であった。またボルボのコンポーネントを多用した初期型の生産が1933年に開始されている。 自動車の自国製造の開始は奇妙なエピソードも生んでいる。フィンランド政府は自国生産車が増えることで通行料収入を失うのではないかと考え、1933年に調査機関を立ち上げている。この調査の結果、フィンランド国内で年間500台の車両が販売された場合、70万mkの通行料収入を失うが、雇用効果による利益が1,700万〜2,700万mkになるであろうと報告されている。 1932年、ヘルステンの後任としてネスリングがGMに起用される。ネスリングはビジネスを率先して推し進めており、地元で製造された低品質な部品によって技術的な問題に直面しているが、時間を掛け解決したことで、国内部品の割合を増やすことに成功している。また他の問題点として継続的に資金が不足しており、ネスリングは自国生産のメリットを強調するため政府に働きかけを行っているが、一向に耳を傾けて貰えず、逆に政府は輸入車の通行料値下げに踏み切ったことで競争が激化している。シスの株主は国内自動車産業の可能性を信じていなかったため、ネスリングは比較的安価で株式の大部分を取得することができ、最終的に株式の80%を保有するに至っている。絶え間ない政府の圧力と繰り返し訪れる技術的な問題にもネスリング含め従業員は一切屈せず、課題を解決するため粘り強く取り組んだ結果、品質も向上し、輸入車と比較して遜色ない程度のレベルにまで達している。 シスの車両が最初に輸出された国はエストニアであった。エストニアの税制度の関係から完成車として輸出することができず、キャビンと上部構造が現地で組み立てられている。1938年にはより多くの車両が輸出されている。また、完成車として最初に輸出できたのはラトビアであった。1937年と1938年にリガでバスを運行するためバスの納入が行われている。第二次世界大戦前にバルト三国に輸出された車両の総数は不明であるが、事業は成功したと見做されている。
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